「大事なもの、大切な人」―私を変えた寮生活―  筑波大学附属坂戸高等学校二年 安藤愛

 中学に入ったと同時に、私の生活はガラッと変わった。寮生活が始まったのだ。あえて、地元の埼玉県から遠く離れた北海道の中学を私は選んだ。三つ上の兄も愛媛県で中学から寮生活をしていた。親から離れて、自由に生活している兄が羨ましかった。

 私は中学受験のストレスで、小六で早くも反抗期を迎えた。母と言い合う毎日―。自分から中学受験をしたいと言ったにも関わらず、勉強が嫌で仕方なかった。「勉強しなさい。」とうるさく言う母が嫌だった。母は正しいことを言っているのに、素直に頷けない自分がいた。「寮へ行けば、母とも顔を合わさずに済む。」私はそんな軽い気持ちで入寮を決意してしまった。

 入寮当日、皆が親との別れを惜しんでいるなかで、私は「じゃあね。」と何でもないように母を見送った。その年の私と同じ一年生の入寮者は九人だった。同室の子ともすぐに慣れ、やはり寮に入って正解だったと思った。口うるさい母はもういないのだ。開放感で私は満たされていた。

 しかし、寮は思っていたほど甘くなかった。女きょうだいがいなかった私は、先輩は姉、後輩は妹のような和気藹々とした雰囲気を想像していた。ところが、入寮した夜に室長から渡されたのは「裏寮則」と書かれた分厚いホチキス止めのプリントだった。そこには、体育会系を思わせる先輩と後輩の待遇の差がはっきりと表れた寮則が、ずらっと並べられていた。ちょっと前まで小学生だった私には理解できない上下関係が書き記されていた。とんでもないところに来てしまったのだと呆気にとられた。寮というところはこんなに厳しいものだったのか。入ってから知った寮の実態。しかし、入ったからにはそんなことで辞めたくない。絶対先輩主義の寮則に疑問を抱きながらも私の寮生活はスタートした。

 最初はみんな修学旅行の気分で寮生活をエンジョイしていた。しかし、寮というところは学校の延長線上で、家のように寛げる場所ではなかった。二十四時間、他人と過ごさなくてはならないのだ。一人になりたくてもなれない。そんな苦しさが積もりに積もって、ホームシックで泣く子が出てきた。「夢に家族が出てきたのに起きたら寮だった。」そう言って朝から寂しさのあまり涙が止まらなくなり、学校に遅刻して来る子もいた。ホームシックで友達が泣いているなかで、私はみんなを励ます立場だった。「すぐゴールデンウィークで家に帰れるよ。」と合言葉のように唱えていた。そう、四月に入寮しても一ヶ月後にはゴールデンウィークがあり、帰省することになっている。「一ヶ月くらいなんてことない」と私は泣くどころか強がってさえいた。

 一週間のゴールデンウィークを家で過ごし、帰寮する時が来た。明日はもう家族が側にいない。寝る時に見るのは家の天上ではなく、寮の二段ベッドの板になる。いざ寮に帰るときになってとても悲しくなった。それでも行かなくてはならなかった。学校があるからだ。

 帰寮の時に母が駅まで送ってくれた。私が電車に乗ってからも、母は手を振り続けていた。「次に会えるのはいつだろう……。」そんなことを考えていたら、涙が出てきた。この時から私のホームシックは始まっていたのかもしれない。

 寮に帰ると、また体育会系の生活が始まった。次に家に帰れるのは夏休み、すなわち二ヶ月先である。ゴールデンウィーク前はみんな修学旅行気分で済んでいた。しかし、人は長く一緒にいると徐々に嫌な面が見えてきてしまうものだ。生まれも育ちも違うのだから、生活のスタイルも違う。自分では当たり前のことが他人にとっては驚きのことだったりする。学校なら「この子嫌い」で終わる話も寮ではそうはいかない。嫌でも一緒に生活しなければならないのだ。もちろん苦手な子と同室のこともある。日がたつにつれて、相手の悪いところに目がいくようになってしまった。家族に会えない寂しさ、寮生活のストレスで皆イライラしていた。そして、入寮以来ずっと一緒にいた一年生九人が徐々に分裂しつつあった。女の子に多い「グループ」ができ始め、「仲良し九人」はなくなっていた。

 ある時、そのグループ同士でケンカが起きてしまった。その子たちだけでは解決できず、結局、九人全員で話し合うことになった。「そこを直したほうがいい」「私はあの時こう思った」などずっと心にしまっていたことを吐き出した。次第に涙ながらの訴えになり、最後には全員が泣き出してしまった。もうなぜ泣いているのかさえわからない。ただ、皆同じなのは家族が側にいない寂しさと不安で、押しつぶされそうになっていたということだ。ちょっと前までは幼い小学生だった。その子達がたった十二歳で親元を離れていたのだ。もう限界だった。

 でも、その皆で泣き合った日を境に私たちの絆は深まっていった。私は人前で泣くのを酷く嫌っていたのだが、その九人の前では泣いてしまった。「皆寂しいんだ」「同じなんだ」と思った瞬間に涙が出ていたのだ。それは、この仲間たちを私が受け入れた証拠だったのかもしれない。

 こんなこともあった。学校で文化祭の準備の時、私は貧血で倒れてしまい、保健室の先生が看病してくださった。その時、私は急に泣き出し、先生を驚かせてしまった。

 実は、看病をしてくださった先生と、私の母の姿が重なってしまったのだ。いつも私の看病をしてくれたのは母だったのに、そこにいたのは私の母ではなく、先生だった。私は今寮にいて、家族と遠く離れてしまっていることを改めて痛感した。寂しさでどうしようもなかった。そのとき私は家族の無償の愛に気がついた。親から子へ与えられる、何ものにも代えられない愛だった。

 それから、私の反抗期はパタリと幕を閉じた。私は親の愛情の中で育っていたことに気づいたからだ。周りが反抗期で「家に帰りたくない」と言っている波に逆らって、私は「家族に会いたい」と常に願っていた。父が私にくれた手紙に忘れられない一節がある。「北海道の空は今日も綺麗なのだろうね。その同じ空の先にパパはいるよ」という言葉だった。ホームシックの時にこの手紙を読んで号泣したのをよく覚えている。読む人によっては、なんてことない言葉かもしれない。しかし、私にとっては深い言葉なのだ。私は一人ではない。今は遠く離れていても、同じ空の下に愛する家族がいる。それがどんなに励みになったか。

 寮も慣れてくれば楽しいものである。私たちは何か問題が起こると、必ずミーティングを開いて話し合うようにした。そのたび、お互いの気持ちを確認し合い、さらに仲良くなっていった。長く一緒にいられる分、話せる時間も長かった。夜、夢について語り合ったり、皆で大笑いしたり。私にとっては涙を見せられる仲間が出来たというのが一番大きかった。同じように寮生活をしているからこそ、何も言わなくてもすぐに泣いている理由を察して、抱きしめてくれた。そして一緒に泣いてくれた。「親友」というのはこういう人をいうのだろうなと思った。もう前みたいに相手に嫌いなところなんてなかった。直してほしいところは言い合えたからだ。今まで心からこんなに他人を信じたことがあっただろうか。いや、少なくとも入寮する前にはなかった。寮だからこそできた信頼関係だと思う。すべてを受け入れてくれる、大好きな友達が寮にはたくさんいた。

 そして、最初はあまりの厳しさにびっくりしてしまった寮則。しかし、今考えると、あの寮則には社会に出たら守るべきルールが含まれていたのだ。私はその細かい寮則のお陰で「ありがとうございます」「すいませんでした」の一言が自然と言えるようになった。

 さらに、あれだけ人間関係で悩んだために、自分自身強くなっていた。前は内気だった私が、初対面の人でも普通に話せるまでに成長した。何より、中学生のうちに親元を離れるという過酷な経験をしたために、ちょっとのことではへこたれない忍耐がついた。

 家族の愛、友情、気配り、忍耐、社会のルール……すべて私が三年間の寮生活で学んだことだ。寮は私の人生の糧となるものをすべて与えてくれた。本当に寮に入れてくれた両親には感謝している。もちろん、三年間笑い、泣きあった仲間にも感謝している。

 私の大切なものは、寮生活の思い出そのものだ。





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