「大事なもの、大切な人」―天と地と人と―  聖母学院高等学校一年 山元麻友美

はじめに

 ありがたし/今日の一日も/わが命/
    めぐみたまへり/天と地と人と  (佐々木信綱)

 朝、目ざめるたびに「ああ、今日も命があってよかった」と安堵する。人生におびえているわけではないが、なぜか嬉しい。

 「今日の空はどんな表情をみせてくれるのだろう。四季折々の風景の中に新しい発見があればいいな。どんな人との出会いが待っているのだろう」。そのようなことを想像するのが無性に楽しいのだ。私にとって「大事なもの」、それは、佐々木信綱が詠った「天と地と人と」である。

 信綱は、命がもう終わりだという直前に、この歌を詠ったという。死の間際にあって、命があることを宇宙や自然からの恵み、そして大勢の人たちからの恵みによって生かされている、と感謝をこめて詠うのだ。思わず背筋が凛とする。

一.天

 空を見るのが好きだ。広くは宇宙といってもよい。朝となく昼となく時間のあるかぎり空を見上げる。どこまでもゆったりと広がる天の野原。不安げな曇り空。涙を落とし恵みをもたらす雨空。まるで微笑むかのように虹がかかった空。照れくさそうな夕暮れや怒りもあらわな嵐の日……。空は、表情ゆたかな心のパレットそのものだ。

 とりわけ秋空は、いい。雲ひとつなく、どこまでも明るく澄み切った青空の奥には何がひそんでいるのだろうか。形容しがたい光景を、八木重吉が見事に言いえている。

 この明るさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美くしさに耐えかね/琴はしずかに鳴りいだすだろう。(「素朴な琴」)

 勉強に疲れて一段落した時などに、しじまをぬって夜空を見上げることがある。特に冬の空は澄んで美しい。空一面にきらめく星座ひとつ一つが何かを話しかけてくれるような気がする。“あなたは一人じゃないよ。みんなで見守っているよ”と。なぜか安心できる。

 それにしても宇宙には一体どれくらいの星々が存在するのだろう。そして宇宙とはどこまで遠く深いのだろうか。そのような疑問に拍車をかけるような記事を目にして驚いた。つい二ヶ月前のことだ。

 国立天文台や東京大などの研究チームがすばる望遠鏡で観測した銀河は、地球からの距離が約百二十八億八千万光年あるという。これまでで最も遠く離れた銀河の発見というわけだ。一光年は光が一年間に届く距離だから、秒速三十万キロを乗じるととんでもない距離になる。更にその百二十八億倍かなたというのだから、宇宙の長さ・広さはとても想像できないほど神秘に満ちている。

 逆に国境もない広大で自由な宇宙から見下ろせば、地球は針の先にも満たない。この大きな宇宙の存在は、人間なんて本当にちっぽけな存在でしかないと教えてくれる、私にとっては「大事な」先生だ。

二.地

 日本に生まれてよかったと思える一つは、四季の美しさを肌で感じられることである。わが国では、春夏秋冬がほぼ三ヶ月ごとにやってくる。こうした四季の移り変わりが日本人の美意識を育て、感性を磨いてきたといえるだろう。私自身もその恩恵にあずかっている者として、それを本当に大事にしていきたいのだ。

 春は花 夏ほととぎす 秋は月
   冬雪冴えて 冷しかりけり  (道元)

 川端康成がノーベル賞授賞記念式典で「美しい日本の私」と題した講演をした時、この歌を引用したのもうなずける。先ほどあげた佐々木信綱氏の有名な「夏は来ぬ」も夏の風情を見事な日本語で表現していて関心する。

 「卯の花の 匂う垣根に 時鳥 早も来なきて 忍音もらす 夏は来ぬ。さみだれ そそぐ山田に 早乙女が 裳裾ぬらして 玉苗植うる 夏は来ぬ……」。

 日本の唱歌には、このように心なごむ歌が季節ごとに作られており、ずっと大事に歌い続けられてきた。しかし何故か近頃の子どもたちに人気がないらしくて、音楽の教科書からどんどん消えていくのは何ともさびしい限りだ。佐々木信綱氏が言っているように、「歌の心は愛づるである」という言葉をいま一度かみしめていきたい。

三.人

 「もちつもたれつ人の字はかたじけなさに涙こぼるる」――確かこんな内容の歌だったと記憶している。「人」という字を見るだけで、ありがたい、もったいない、かたじけない、と頭が下がるというのだ。支えがなければ倒れてしまう。人は決して一人では生きていけない存在なのだ。多くの人々に支えられて生きているのなら、自分自身も誰かを支える人間にならなければ、と励まされる歌である。

 先日ある先生から聞いたことだが、一人の人間が生まれる確率は、何と七〇兆分の一だそうだ。それは人間の遺伝子は二つのペアーで二十三組あり、それら両方をそれぞれ2×2×2と二十三回かけると、七〇兆になる。つまり受精卵から生まれる子どもの確率は七〇兆の可能性があり、一人ひとりは七〇兆分の一の奇跡的な数字のもとにこの世に生まれてきたのだ。まさに「かけがえのない」存在である。

 この事実を知って、今までの人間観がすっかり変わってしまった。一人ひとりの人間を本当にいとおしく感じるようになった。

 さらに、全世界には六十五億人が住んでいることを考慮すると、一人の人間は六十五億分の一の存在だ。七〇兆分の一の確率で誕生した者が、六十五億分の一の確率で出会う。これもまさに奇跡と呼んでもさしつかえないだろう。それほど人との出会いは厳粛なものだ。両親をはじめとして、今教室にいる仲間もそうだし、道行く人々もみな同じ奇跡的な数字のもとで命を授かった者同士である。こういう事実を知ると、生きていることが決して当たり前だとは思えなくなってしまう。一人の人間が生きているということは本当に大変なことなのだ。

 それにしても一体誰がこうした奇跡をおこさせているのだろう。七〇兆もの確率を生む遺伝子を、誰がどのような方法で書き込んだのだろう、という疑問がわいてくる。 おわりに

 それは大宇宙のなせる業なのか。人間の力でできるはずもないのなら、やはり人間をはるかにこえた超自然的な創造主の存在を信じたくなる。

 地球から百二十八億光年先に銀河が存在することも、春夏秋冬ごとに変わる季節の移り変わりも、あるいは天文学的な数字で人間が誕生することも、つまりは「天と地と人と」は、私自身にとっては生きる意味を真剣に考えさせる大事な教科書のように思える。

 今日も真っ青な秋日和のなかで、紅葉が美しく映えていた。地球の方々では新しい生命が元気な産声をあげたことだろう。窓を開けると、ひやっと冷たい風が頬をかすめる。今夜もキラキラと星が輝いている。

「ありがたし/今日の一日も/わが命……」、天と地と人にお礼を言いながら窓を閉め、静かに床につく。





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