「大事なもの、大切な人」―『大切な二人の笑顔』―  流通経済大学付属柏高等学校二年 今村匠実

 祖母の顔から明るい微笑みが消えた。どこか遠い目をし眉間に皺を寄せ、魂が抜けてしまったような顔が、いつもそこにある。

 私の幼い頃、仕事を持っていた母に代わり、優しい笑顔で幼稚園バスを見送ってくれた祖母、そっと木陰に隠れ、園庭で遊ぶ私の姿を心配そうに見つめてくれていた祖母。私は祖母が大好きだった。「年寄りっ子は三文の損」と言われても、広く温かい胸に顔を埋め、皺くちゃな手で抱きしめられる幸せなひと時は、何物にも代え難い貴重なものだった。祖母の腕の中は、まさに私の安らぎの場所だった。

 そんな祖母が三年前、突然壊れた。おもちゃなら、直す手段も買い換える方法もある。しかし、祖母に刻まれた傷は、修復不可能な程、深く激しく…。祖母に下された残酷な診断結果は『認知症(当時は痴呆症)』という中学生の私には、聞き慣れない理解しがたい病名だった。そして家族にとっては、これから押し寄せる想像を絶する、苦しみ・怒り・悲しみ・絶望の幕開けとなったのだ。

「ここに置いといたパン知らない?」

「あれっ、今日学校に持っていく体操着が無くなってるぞ。」

 我が家の朝は、こうして毎日『宝探し』からスタートする。物が紛失し皆で必死に探す行為を、私の家族はいつからか『宝探し』と呼ぶようになっていた。もちろん原因は誰しもが暗黙の了解で、唯一宝探しには参加せず、他人事のようにすまして家族の混乱を見つめている〈あの人〉の仕業なのだ。物をどこかに隠した張本人だけが、『物忘れ』という武器を最大限に有効活用して、朝の慌ただしいパニックとは別世界で、悠々とお茶をすすっている。そんな姿を見ると、怒りを通り越して羨ましくさえ思えてしまう。

「あら〜っ!おばあちゃん、どこ行っちゃったのかしら?」

 と、今度は玄関の方から母の悲鳴が…。たった今、そこに居たはずの祖母が、勝手に家を飛び出してしまったようだ。

「宝探しの次は、人捜しかよ。」

 私は呆れ返りながらも、文句を言っている時間などはなく、大至急みんなで手分けして、祖母の行きそうな場所を捜し回らなければならないのだ。

 祖母の奇行は、日に日に目に見えてエスカレートしていった。身体は至って丈夫なので体力もあり、食欲も旺盛だ。朝は五時前に起き出し、一人電気も付けずにテーブルでパンをかじる。次に起きた母と一緒に再び朝食をとり、最後に私と共に又朝食、といった具合に、食べたことを記憶できない祖母にとっては、毎回が楽しい朝食の時間なのだ。

「おばあちゃんは、さっき食べたでしょ。」

 などとたしなめるような言葉は禁句。

「年寄りだと思ってバカにして。」

 などと、ひがみ暴言を吐き、ついには泣きわめいてでも自分の主張を通そうとする。

 また無類の買い物好きの祖母は、家族の目を盗んでは、近所のスーパーから毎日同じ品物を買い込んでくる。しかも一日数回の脱走を試みるので、我が家の冷蔵庫は、いつも二十個以上ものヨーグルトやら、何パックもの卵やら、何十個ものコロッケで、溢れかえっている。

 ある時、風呂場でザーザーと水の流れる音がしたので行ってみると、私が小遣いを貯めてやっと購入したばかりの本革のサッカースパイクを、祖母がザブンと水に浸して洗っているのだ。水に浸けてしまった革は、堅くなって使い物にならない。さすがに私の怒りも頂点に達し、

「もう、いい加減にしてくれよ。今後一切俺のことはかまわないでくれ。」

 と、思い切り祖母を怒鳴ってしまった。その時の、祖母の哀しそうな目は、今でも忘れることはできない。病気のせいで、頭の一部の細胞は壊れてしまっても、祖母はまだまだ豊かな感情を持っている。それを私は踏みにじり、傷つけてしまったのだ。その自己嫌悪は、しばらくの間、私を苦しめた。

 そんな生活が何年か続いたある日、母の顔からも笑顔が消えた。他に兄弟もなく、たった一人で毎日祖母の世話をし、徘徊が始まってからは二十四時間体勢で祖母の介護にあたっていた母に、最近疲労の色が濃く見え始めた。母の言うことに全く耳を貸さず、自分の感情だけに任せて行動する祖母に、

「我が家にもう一人、反抗期の子供が生まれたって思えば、何て事ないわよね。」

 と、自分自身に言い聞かせるように気丈に振る舞う母を見るのも、辛かった。単身赴任中の父に代わり、一家の大黒柱となって家族を支え、祖母の娘として介護者として、私の父として母として、全てが母一人の上にのし掛かっていることは、紛れもない事実だった。私にとっては、祖母と同様、母も最も大切な一人、その母がダウン寸前であることは、今や目に見えて明らかなことだった。

 私は自分が高校生であることがじれったかった。勉強と部活で精一杯の私には、母の手助けをする時間が制限されてしまう。

「匠実が勉強もサッカーも一生懸命やってくれることが、私の唯一の支えだよ。」

 と私を気遣ってくれる母の言葉を信じ、時間の許す限り、母の愚痴を聞いたり、家事を手伝ったり、せめて精神的な支えとなれるよう心掛けた。

 母の精神力が限界に達している事を知ったのは、些細な事からだった。いつものように巧みな技で脱走を試みた祖母が、数回に分けて、ケーキを計二十個余りも買ってきた。

「たった3人の家族で、こんなにケーキを買ってきて、一体どうするつもりなのよ。」

 いつもは冷静な母が、珍しく激しく感情を表した。ケーキ云々よりも、毎日溜まったストレスを吐き出すかのように…。そして、

「ああ、私もおばあちゃんと一緒に、この世からいなくなってしまいたい。」

 と呟いた。私にとっては、かけがえのない二人、その二人が突然私の目の前から消えてしまったら…、それは筆舌に尽くし難い程、恐ろしいことだった。決してあってはならないことだ。母の何気ない一言は、私の胸に強く深く突き刺さった。

 その時だった。祖母がぼそっと囁いた。

「今日は、ママのお誕生日だったよね。」

 母と私は一瞬顔を見合わせ、次の瞬間、母の目からは大粒の涙が溢れた。

「おばあちゃん、私の誕生日覚えててくれたの?」

 そう、テーブルに所狭しと並べられたケーキは、母のバースデー用ケーキだったのだ。慌ただしい日々の中、母も私もすっかり忘れていた母の誕生日を、祖母だけが覚えていたのだ。母があれほど多く流した涙を、私は今まで見たことがなかった。私も泣いた。祖母は壊れてなんかいなかった。優しさも思いやりも、まだまだたくさん心の箱の中にしまってあったのだ。

「おばあちゃん、ありがとう。」

 母が笑った。祖母も照れ臭そうに笑った。その日、久々に、家族みんなに笑顔が戻った。

 思えば、大量の買い物も、家族に食べさせたい一心で祖母の深い思いやりからした事、スパイクの水洗いも、私にきれいな靴でサッカーをさせてやりたいという祖母の優しい孫思いの気持ちからした行為、そんな祖母の溢れんばかりの家族への愛情を、素直に受け止めてあげられなかったことを悔いた。きっと祖母は、薄れゆく記憶の中で、毎日がどれだけ不安で、心細かったことだろう。私達家族から投げ掛けられる温かい言葉だけを頼りに、何とかみんなの役に立ちたいと、暗闇の中でもがき苦しんでいたに違いない。

 誰でも好きで老いて行く訳ではない。私のこれからの使命は、この二人の大切な人達へ「いつまでも笑顔の絶えない人生」をプレゼントする事だと、強く心に誓った。





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