「忘れられないあの1冊」―「天国で会う五人に教えられたこと」― 早稲田大学高等学院三年 飯泉貴之
私にとって『天国の五人』という本は、一生忘れることの出来ないものの一つだ。
これは、ルビー・ピアという遊園地の乗り物のメンテナンスをしている主人公のエディが、そこにあるアトラクションの事故によって死んでしまう、という「おわり」から始まる物語である。天国に行ったエディは子供に戻り、彼が生前抱えていた悩みや痛みが全て消え去る。そして、彼が生前何らかのかたちで関わった五人の人と、お互い関係のある場所で会い、地上にいた頃の人生を振り返って、エディが当時気づかなかったことやわからなかったことを理解したり、教えを授けられたりする。そして彼は、自分がどれだけ彼らやその他大勢の人たちにとって大切な存在であったかを知り、彼自身も誰かの「天国の五人」として時が来るのを待つのだ。
一人目のブルーマンは、エディが子供の頃にルビー・ピアにいた人で、彼が運転する車の前に飛び出してきたエディをよけるために事故に遭い、死んでしまった。彼の教えは、「誕生と死は一つに繋がっており、死を怖れることはない」ということと、「無駄な人生なんてひとつもなく、唯一無駄があるとしたら、自分を一人ぼっちだと考えることぐらいだ」ということである。
二人目は、エディが軍にいる頃の上官で、彼が地雷を踏んだおかげでエディとその同僚二人が助かった。彼の教えは、「犠牲とはただ失うわけではなく、他の誰かに譲ること」だということだ。
三人目はルビー・ピアの初代オーナーであるエミールの妻ルビーで、彼女の教えは、「憎しみは毒であり、内側から蝕まれてしまう」ということと、「死ぬと憎しみから開放され、天国ではなぜその人を憎んでいたか理解する必要がある」ということだ。
四人目は妻のマーガリート。彼女はエディが「魂の底から愛した」唯一の女性である。彼女の教えは、「人生には終わりがあるが、愛にはそれがない」ということである。これは、たとえ愛をなくしたとしても、今度は思い出が代わりのパートナーとして生まれるので、愛は終わらないということになる。
そして五人目は、フィリピンの戦場でエディが火炎放射器によって焼き殺してしまったタラという少女だ。彼女は火傷でただれた体をエディに洗わせ、元の健康な肉体に戻っていく。彼女の最後の教えは、「子供たちを安全にするために、エディは必要な存在だった」ということだ。この教えによってエディは、長い間疑い続けてきた自分の存在理由を理解するのであった。
天国で会う五人からエディが受けた教えは、読み手でしかない私にとっても大事な教えになった。特にブルーマン、エディの上官、タラの三人の教えは私の既成概念を大きく作り変える要因となった。
この本を読む前、私もエディと同じように自分のことをつまらない存在だといつも思っていた。普通の学校に通い、大した才能も持たず、毎日惰性の中で生きていた。当たり障りのない交友関係はあったが、心の底には薄い孤独感だけが漂っていた。しかしブルーマンの「無駄な人生なんてひとつもなく、唯一無駄があるとしたら、自分を一人ぼっちだと考えることぐらいだ」という教えを受けて以来、まるで生まれ変わったかのように自分自身に対する考えが変わった。それ以前のように孤独はほとんど感じない、というか考えないようになり、一日一日を大事に過ごし、自分に課せられた役目を確実にこなすように努力した。また、多かれ少なかれ全ての人と関わりを持っていると感じたことから、せめて直接関わった人にはいい影響を与えることが出来るように振る舞おうと心がけるようになった。
誰かのために意図して自分を犠牲にすることは、決して容易ではないと思う。大多数の人間が最終的に考えるのは自分のことだ。エディの上官も決して自分を犠牲にしようと考えていたわけではなく、リーダーとしての立場から集団全員の安全を考えたうえでとった行動が地雷を踏むという結果になってしまっただけだ。しかし彼は天国で犠牲ということの意味をエディに伝える。それを彼が生きているときから考えていたことか、天国に行ってから彼の「五人」によって教えられたのかはわからないが、彼の犠牲に対する考え方には諸手を挙げて賛同したい。ましてや私達が暮らしている生活環境が、今のところありがたいことに命が危険にさらされるような状況ではない。だから、私は自分を犠牲にすることに何らためらうことはなくなった(もちろん今の生活が変わらず続けば、の話だが)。何故なら、それはただ「他の誰かに譲ること」にすぎないからである。自分が誰かの代わりに煩雑な仕事を引き受けるというような、それまでの私には考えられないようなことにもそれほど苦を感じなくなった。
ルビーの言うように、憎しみは毒のようなもので、心の内側から蝕んでいく。私達も誰か、あるいは何かに対して憎しみを持つことはよくある。しかし、憎しみを心に抱えている間、その心に平穏はあるだろうか。憎しみという即効性の毒によって一瞬のうちに平穏など忘れ去られてしまうだろう。だから、これは四人目のマーガリートの教えにも繋がるが、人を愛するということが大事なのである。終わりのない愛というものでその人を包み込めば、これほど平穏な心のありようはないだろう。
単調な毎日の仕事が嫌になることがあるだろう。しかしエディはその単調で取るに足らない(と彼が考えている)仕事を彼の生涯をかけて続けてきたから、今のルビー・ピアや多くの子供たちの笑顔があるのであり、そのために自分は存在していたのだという確信を得る。私はまだ仕事というものをもってはいない。しかし、エディのように単調な仕事であっても、そこから逃げ出さずに最後までやり遂げるということが大事だと学んだ。
私がこの本を読んで感じたことは、エディの言葉や作中の表現を借りるが、人はたとえ自分のことをつまらない存在だと思っていても、その人と関わった人からすればとても大切な、愛するべき存在である。そしてその関わった人がまた誰かと関わり合い、そのようにして全てが皆繋がっている、言い換えるなら人は誰かに生かされ、また誰かを生かしてもいる、ということである。
私も誰かの「五人」になれるのだろうか。それはエディのように、一瞬一瞬自分のやるべきことを隅までやり遂げられるかどうかにかかっているだろう。
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