「大事なもの、大切な人」―私がそれに気付いたとき―  聖ドミニコ学園高等学校二年 橋爪智美

 私にとって何よりも大切なものは、私の記憶に残る「辛い思い出」である。今の私を支えてくれている人やものはあまりに多すぎて挙げていくと終わりがない。家族、友達、好きな音楽も大切な本も、今まで関わったもの全てが現在の自分につながっているのだ。けれども、以前の私はこんなにもたくさんの「支えの存在」に気付いてはいなかった。そして、それらの「支えの存在」に気付かせてくれたのが「辛い思い出」なのである。

 「辛い思い出」が何よりも大切だというと矛盾があるように思えるが、辛い思いをしたときこそ自分にとっての「支えの存在」を意識することの出来る一番の機会なのだ。高校二年生である現在までに様々な経験をしてきたが、私にとって最も重要な「辛い思い出」は去年、高校一年生の秋に起こった出来事だ。

 高校一年生の秋、私は病気になった。最初は突発性難聴というもので、片方の耳の聴力が正常よりも下がってしまうものだった。私は原因が不明だったために不安は感じていたが、日常生活には正常なもう1つの耳で十分に不足はなかったし、外見に表れる症状ではなかったので実際の不便はなかった。しかし、それがまだ完治しない頃に私は過換気症候群という病気を繰り返すようになってしまったのだ。

 過換気症候群とは、何かのきっかけで呼吸が乱れて体内に酸素を取り込み過ぎ、血液中の二酸化炭素が不足してしまう病気だ。初めて過換気症候群になったときの原因はわからなかったが、その後私は嫌な出来事が起こるごとにその症状に陥るようになった。当時、私は水泳部に所属していたが、有酸素運動である水泳もきっかけになりうるために皆と同じようには練習出来なくなった。

 両親はこの病気について調べたりして、私のことをとても心配してくれていた。ところが、そのときの私は自分が病気であるということよりも、過呼吸をおこしている自分を友達や両親に見られることを何よりも怖がっていた。以前のように部活動に参加しなくなった私を友達も心配してくれていたが、私はその友達に自分の病気を絶対に言わなかった。

 私は周りに自分のことを大切にしてくれている人がいるのにも関わらず、その人たちからの励ましを拒否していたのだ。原因はわからないにしても、内科でも外科でもない、目に見えないものが原因の病気である自分を恥ずかしいと感じていた。

 自分のことしか考えていなかった私は症状が良くなるはずもなく、遂には学校で発作を起こしクラスメイト全員にその姿を見られてしまった。あんなに恐れていた出来事が現実になってしまったのだ。私は誰かに話しかけられることすら怖くなって、こっそりと早退した。その日から私は、学校に行くと誰かに過呼吸のことを尋ねられるのではないかとびくびくして過ごすようになった。そのために過呼吸を起こす回数はますます増え、薬も持ち歩くようになった。しかし、薬を飲む行為は自分が病気であることを認めてしまうような気がして避けていた。それでも必要なときは、友達からも家族からも隠れてこっそり飲んでいた。

 両親は学校に行きたくないと言い出した私を以前にも増して気にかけてくれた。そんな両親に私は、たとえ学校で過呼吸になろうともそれを決して報告しなかった。これ以上に心配をかけるのは嫌だったし、そんな病気になっている自分はいつか嫌われてしまうに違いないと思ったのだ。そして両親は私がどんなに嫌がっても学校には必ず行かせた。

 「大丈夫?」と聞かれるたびに「お前は病気だ」と言われているような心地になって、たったそれだけのことで過呼吸を起こす。発作になると苦しくて、指先から次第に体がしびれて動かなくなっていく。周りの人が心配して来てくれる。どうしようもなく恥ずかしくなる。そして、ある日恥ずかしさに耐えられなかった私は、薬を多めに飲んでしまった。気持ち悪くなって保健室へ向かう途中、副作用の眠気に襲われて倒れた。先生が凄い剣幕で私を抱き上げて、廊下を走ってくれたのをぼんやりと覚えている。

 目が覚めると私は保健室で寝ていた。休み時間になると友達が来てくれた。私が目覚める前にも何度も来てくれていたという。何を聞かれるのかと怯えていた私に友達は「無理しないでね。体大切にしてね。大丈夫だからね。」と言った。私が「うん。」と返事をすると、それきり何も聞かずに休み時間が終わるまで横に座ってくれていた。私は泣いた。人前なのを気にもせず、ひたすら涙を流した。止まらなかった。今まで、友達に何も言わずに怯える素振りだけを見せていた自分に気付いて申し訳ない気持ちでいっぱいになった。その後に訪ねてきてくれた友達も先生も、私に薬を多めに飲んだことや「どうしてそんなふうになったのか」なんてことは決して聞かなかった。そのとき、私は今まで避けてきた人達がとてつもなく大切なものに思えた。今まで隠していたことを何もかも話してしまいたい衝動に駆られた。

 「両親には連絡しないで」という私の願いが受け入れられるはずもなく、私が薬を多めに飲んで倒れたことは両親にも伝えられた。怒られると思って帰宅すると、両親は泣いていた。そして私に「何で」と言った。私がその場に立ち尽くしていると母が言った。「少しでも過呼吸になっちゃう気持ちを解りたいのに、何一つ教えてくれないじゃない。」私は驚いた。自分が隠していることが両親に一番心配をかける結果になるなんて少しも思っていなかったのだ。思い返してみれば、私は皆が差し出してくれていた手をわざと無視していたのだ。私は凄く大切なものを自分が無視していたことに気が付いた。私は泣いた。声をあげて、時々しゃくりあげながらひたすら涙を流した。泣きながら謝った。そして泣きながら、何もかも話した。両親に嫌われると思ったこと、友達に発作を見られたくなかったこと、薬を飲むのが怖かったこと、そして学校で友達や先生が私をとても大切にしてくれたことも全て話した。両親はずっとうなずいて聞いてくれていた。そのとき私は、心から自分のいる家庭を大切に思った。もう二度と両親をこんな気持ちにさせたくないと思った。私の体温も両親の手も周りの空気も、全てが暖かかった。

 その後、私は少しずつではあったが過呼吸が起こる回数が減っていった。なったときにはちゃんと両親に報告した。病気のことで嫌な思いをしたら、それを友達に相談した。学校に行きたくないとは、もう思わなかった。そして高校二年生の春には、私はもうすっかり過換気症候群の症状を起こすことはなくなった。

 これは今でも私の中で「辛い思い出」として記憶に刻まれている。確かに辛かったのだ。しかし、私はこの「辛い思い出」を消し去ろうなんて決して思いはしない。自分の周りには大切な人やものが溢れていることに気が付けたからだ。病気になった自分を恥ずかしいとはもう思わない。それよりも、自分のことしか考えずに「支えの存在」を無視していた自分を恥ずかしいと思うからだ。「支えの存在」に気付かせてくれたこの「辛い思い出」は今の私が生きていく上で、とても大切で不可欠なものなのだ。

 今、私はこの経験を経て家族や友達に支えられて日々を過ごしている。そして今私は、「自分も周りの人間の支えとして存在していたい」と心から願っている。





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