「二十歳の自分への手紙」―大人へのステップ― 早稲田大学高等学院三年 神山裕康
どうも、こんにちは、二年後の僕。突然ですが「自由」ですか。今ここで指す「自由」とは、つまり二十歳に入っても誰に流されるでもなく、また誰のいいなりになる訳でもなく相変わらず自分という存在を見失うことなく、自分のやりたいことを思いっきりやっていますか。これを書いている僕は十八歳ですが、大人になるにつれてこの「自由」でいることが難しいとよく聞きます。しかしそれがやれていないようであれば、それは僕の知っている神山裕康、つまりあなたではありません。生徒会長になった時も、早稲田高等学院という学校を選んだ時も、他人任せにするのではなく、全部自分の意思で選んで妥協せずに自分の出来る限りの力を使って乗り越えてきました。そこには確かに自分の力を信じられる力とそれに伴う努力がありました。社会に出た後だからといってこれが必要なくなるわけがないと思います。むしろより重要になってくるのではないでしょうか。ただ勘違いして欲しくないのは、「自由」でいることと、好き勝手やるということは違うということです。覚えていますか。「自由は山巓(さんてん)の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることは出来ない」。早稲田高等学院のときの恩師、福田敏弘先生が好んで用いた芥川龍之介の警句です。つまり自由とは一言で片付けてしまえば、利点しかいように思えますが、そこには常に「責任」が伴い、多くの人間は自由に耐えられなくなって、自ら望んで社会の中で縛られていきます。かのゲーテも『格言と反省』の中で「すべての人間が、自由を得るや、その欠点を発揮する。強い者は度を越え、弱い者は怠ける」と記している。しかし私は決してすべての人間が自由に溺れはしないと思います。学校内ではもちろんのこと、学校の外においても広く知識を学んで、美しいものと出会い、自分を鍛え、自己を確立すれば、「自由」でいられることができると思います。逆にその努力を怠って、狭い価値観の中で、自分の「自由」を尊重することは、人間としてあまりに小さいと思います。もう一度聞きますが、二年後の僕は「自由」ですか。
そして今僕が生きている2006年の日本ではある一つの現象が社会全体を揺るがしています。それは「いじめ」です。いじめとは、広義には立場の弱い個人や集団に対して、精神的にあるいは肉体的に苦痛を与える行為である嫌がらせが一時的もしくは継続的に行われている状況であり、狭義には被害の範囲が個人です。社会問題として取り上げられるのは、多くの場合、児童・生徒間の学校関連のいじめですが、いじめは成人の間、成人の子供へのいじめも見られ、具体的構造はどのいじめにも共通します。二年後の日本では、きっとニュースなどでは取り上げられることは、なくなっているかもしれません。しかし、いじめ自体の存在はこれまでもありましたし、二年後の僕の世界においても残っていることでしょう。みんながなくなって欲しいと昔から思っているはずなのに、未来にも受け継がれてしまう理由は、現時点で僕はそれが人間の「本能」であるからだという結論に達しました。そもそも日本には、古くから有形無形を問わず「ムラ社会」が存在し、その中では、いわゆる村八分が一つのいじめの形態となっていました。江戸における穢多(えた)・非人(ひにん)などの制度的な身分差別はいじめが極限にまで達した状態だったといえるでしょう。そしてこの身分差別に代表されるように人間とは自分を理性で抑えていないと、自分よりも弱いものを使って、自分の地位を誇示しようとしたりしてしまう非常に弱い動物なのです。よって理性で本能を抑えることがまだあまりできない子供間においていじめは起きやすいのです。それを監督すべきが学校の教師の仕事。しかし2006年ではその教師さえもが子供をいじめています。つまり大人、子供だれだっていじめの加害者になるのです。そして自分では直接やるつもりがなくても他人がやっているからという理由で心が折れてしまい、いじめに加担してしまう者もまた同じ加害者となり、被害者の心に深い影を落としていくことになるのです。そういう意味では、いじめは人間の心の弱い部分、醜い部分が形として表れたものです。現に僕もいじめに加担してしまったことがありましたね。あれは中学3年の時でした。中学校生活最後に、クラス全員で取り組む合唱コンクールに向けての練習において、いじめが起こりました。ソプラノの女の子で歌が上達するのが遅い子がいた時、クラスは手を差し伸べるのではなく、その子を蔑ろにしてしまいました。あの時僕は何か出来るはずでした。言葉をかけてあげるだけでも状況はいくらか打開出来たはずです。しかし何も行動しなかった。クラスの皆がやっていることという名目で一緒になって態度を変えました。ただただ自分自身がクラスメイトに嫌われるのが怖くて。結局その子は学校に来なくなって、コンクールでは優勝することが出来ましたが、あれで満足することが出来ませんでしたよね。その子は結局卒業式の少し前になるまで学校に登校してきませんでした。自分自身の弱い心が一人の人間の心にどれほどの傷を負わせたかあの時あなたは身をもって感じたはずです。そして自分がいかに小さい人間であったかを実感したはずです。二年後の僕はどうですか。いじめの加害者、もしくは被害者になってはいませんか。もし加害者となっているようであれば、それは過去の自分の過ちを全く清算出来ていない精神的に幼稚な、非常に卑怯で、汚い大人であるということを感じてください。被害者になっているならば、しばしあなたが過去に与えてしまった痛みを味わい、いかに苦しいか体で分かるいい経験ではないですか。
ここで話を変えて質問させてください。彼女はいますか。もっと具体的に言うと本気で一人の人を好きになるという経験をしましたか。残念ながら十八年間生きてきてこの経験をしたことがありません。一人の人のことは心の底から好きになって初めて分かるものがあると思います。そしてそれはいくら教科書を読もうが、それはそれぞれの教科書を編集した者の定義が文章によってコンパクトにまとめられているだけであって、自分自身の手によって本質を知ることとは全く別物なのです。それが「愛」というものです。いじめは人間の本能からくるものと先に述べたが、この「愛」もまた古来から人間と切っても切れない関係にあります。一般に、愛は非常に多義的で複雑な概念であり、多くの人々によって定義を与える事が出来ない、あるいはそのような試みが不毛である、とも言われてきました。しかし「愛とは何か」という問いは人類にとって普遍のテーマといえるでしょう。それを扱った芸術作品は数え切れないほど制作されている。愛はそれ自体は明確に表現出来ないものです。だからこそ自分自身で経験して初めて「愛」というものを自分の中で消化できると思います。
ここまでいろいろ要求してきましたが、きっと二十歳の僕なら成し遂げてくれるだろうと根拠のない自信に満ち溢れている現在十八歳の僕です。体にはくれぐれも気をつけてください。
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