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ハンク・ジョーンズ(2)
ハンク・ジョーンズ おやっと思ったのは、もともとピアノ奏者によって知れ渡った楽曲を選んでいる点だ。「スウィート・ロレイン」はナット・コール。「モーニン」はアート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの代表曲だが、作ったのはピアノ奏者、ボビー・ティモンズ。「テイク・ファイブ」はデイブ・ブルーベック…といった具合だ。

「いや、選曲はプロデューサーが寄越したリストの中から選んだだけだよ。今見るとバランスがいいね。バラードもあれば、非常に有名な曲も入っているし。ほかのピアノ奏者の演奏で有名になっている、か。うーん。それがどういう意味をもつかより、ともかくリスナーがよく知っている曲だ。とっつきやすい選曲だというふうに考えるよ」

というわけで、失礼ながら本人にはたいした意図はなさそう。まあ、このあたりがいかにも職人肌といったふうで、とてもよいのだけど。

しかし、しつこいようだが、「モーニン」や「テイク・ファイブ」などは、あまりにも作曲者であるピアノ奏者の印象が強い。同じ楽器の演奏かとしては、なかなか手を出しにくいのではないか。もしかしたら、今回初めて弾いたのでは?


「うーん。初めての曲は…おそらくないんじゃないかな。『グリーン・スリーブスス』は、あまり弾いた記憶がないけど。『テイク・ファイブ』は演奏した記憶がある。レコーディングも…あるいは昔、しているんじゃないかなあ。そう…デイブ・ホランド(ベース)がいたような…」

前述のようにフュージョンが台頭してきた71年から3年ほどの間、ハンクは「エイント・ミスヘブン」というレビューにピアノ奏者の役で出演していたという。そのレビューがかかる劇場の前にピアノを運び出し、そこで1時間ほど独奏する余興をしていた。そのときに、「テイク・ファイブ」を含むあらゆる曲に挑戦したのだという。

いよいよ印象深い「サムシン・エルス」
ところで、自分のレコーディングについては「ほとんど覚えていない」と断言する。ハンクの作品については日本人のコレクターが詳細なディスコグラフィー(全作品資料)を作っており、2年おきぐらいにそれが送られてくるのだという。「どうやって調べているのか私自身にもわからないけど、ともかくあれは助かる」と笑う。

ハンク・ジョーンズ しかし、閉ざされた記憶の扉になんらのノックをしてやると、スルスルと思い出してみせる。たとえば、新生GJTのドラム奏者、ジャックとの過去の共演について。レコード会社の資料によると1972年以来になる。それを確かめると「え? そうなの?」と首をかしげる。しかし、ボビー・ハッチャーソン(ビブラホン奏者)のアルバムで…と水を向けると、扉は一気に開く。


「ああ、そうだ、そうだ。ボビーのアルバムだ。当時のジャックは、ものすごいアフロヘアで、頭がこーんなに大きかったよ!」

そんなハンクにとって、もっとも印象的だったレコーディングは何かと問うと、迷わずブルーノート・レーベルの『サムシン・エルス』の録音現場を挙げた。キャノンボール・アダレイ(アルトサックス奏者)名義だが、実質的にはマイルス・デイビス主導とされる58年録音の名盤。

「ほかと比較してすばらしかっという意味にとらないでほしいが、印象に残っているのは確かだ。きわめてリラックスした現場だったからね。にもかかわらず大勢の人の記憶にいつまでも残るような作品になった。あののんびりとした日の記録が歴史的な作品になるなんて、まったく想像もしなかった。時がたつにつれて、いよいよ印象は深まるね。まあ、これを超える録音は…これから、作ってみせるよ!」

TEXT & PHOTO BY TAKESHI ISHII/石井健




FORWARD
ス・ワンダフル
ザ・グレイト・ジャズ・トリオ/THE GREAT JAZZ TRIO

VRCL 18822
(CD & SACD Hybrid)
¥2,835 (tax in)

01.ス・ワンダフル
02.スウィート・ロレイン
03.モーニン
04.酒とバラの日々
05.テイク・ファイヴ
06.アイ・サレンダー・ディア
07.ナイト・トレイン
08.恋人よ我に帰れ
09.グリーン・スリーヴス

PROFILE
1918年7月31日、米ミシシッピ州ヴィックスバーク生まれ。その後ミシガン州ポンティアックに移り、10代のころから地元で演奏を始める。44年にニューヨークへ出て、当時の先端ジャズだったビ・バップを吸収。47年にはオールスターによるジャズ興行だったJATPに参加。翌48年からは名歌手、エラ・フィッツジェラルドの伴奏を務めたり、ビ・バップの開祖であるチャーリー・パーカート共演したりした。

50年代はさまざまなレコーディングに参加し、59年から17年間は放送局のスタッフ演奏家としてテレビやラジオ番組の演奏にもかかわった。

76年4月、日本人のアイデアから生まれたザ・グレイト・ジャズ・トリオに参加し、以後、GJTとして多数作品を発表。

日本の大手家電メーカーのテレビCMに出演し、そこでの「ヤルモンダ!」というせりふが大いに流行したことも。
公式サイト
http://www.eighty-eights.com/
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