テレビや舞台の「裸の大将」シリーズの山下清役で知られる俳優の芦屋雁之助(あしや・がんのすけ、本名・西部清=にしべ・きよし)さんが7日午後2時、うっ血性心不全のため、京都市内の病院で死去した。72歳だった。京都市出身。自宅は公表していない。親族らの密葬のみで葬儀・告別式はしない。5月に「しのぶ会」を開きたいという。8日夕、実弟の芦屋小雁さんが名古屋市内で記者会見する。
雁之助さんは長く糖尿病を患い、平成13年、大阪の舞台公演中に糖尿病からくる心筋梗塞(こうそく)で入院。同年9月に復帰を果たしたが、15年4月の名古屋・名鉄ホールの舞台「とんてんかん とんちんかん」の公演中、再び心筋梗塞で倒れて降板、これが最後の舞台になった。
戦後、染物業から旅回り役者一座を始めた父について各地を巡業。少年奇術師からはじめ、剣劇や浪曲などさまざまな芸をこなした。18歳のころに弟の小雁さんとコンビを組んで漫才をはじめ、芦乃家雁玉、林田十郎に弟子入りして雁之助、小雁の名をもらった。
その後、劇作家の花登筐さんに誘われてコメディアンに転身。昭和34年に始まったテレビドラマ「番頭はんと丁稚どん」で番頭役を演じ、丁稚役の大村崑さんや小雁さんらと共演して人気者になった。漫才コンビ、ミスワカナ・玉松一郎の半生を描いた「おもろい女」の舞台(芸術座)で森光子さんと共演、一郎役を演じて54年に芸術祭大賞を受賞した。
ロングヒットになった関西テレビ系のドラマ「裸の大将」は55年に「裸の大将放浪記」としてスタート。ランニングシャツに半ズボン、丸刈り頭といういでたちで放浪の天才画家、山下清さんを演じ、各地で繰り広げるユーモアと人情あふれる物語が人気を集めた。59年には、歌手デビュー曲の「娘よ」が大ヒット。NHK紅白歌合戦にも出演した。
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ランニングシャツにゲタ履き、そんな姿の純真な心の持ち主を演じて愛された「裸の大将」。7日死去した芦屋雁之助さんは、寅さんに匹敵する国民的なキャラクターを演じた役者だった。
「裸の大将」は昭和55年に放送が始まり、平成9年までに当初の予定を大幅に超えて82作が作られた。ロングヒットになったのは視聴者の熱烈なラブコール。雁之助さんは人気の秘密をこう話している。
「いまの世の中、複雑で、なかなかホントのこといわれへんし、のんびり生きたいと思ってもでけへんし、せやから山下清の生き方がうらやましいし、共感を呼ぶのと違いますか」
日本がバブル景気に沸いていたころは常に20%を超える人気のテレビ番組。現代人が置き忘れてきた心を思いださせてくれるドラマだった。
山下清さんが亡くなったのは昭和46年。雁之助さんは11歳年下だが、本名はともに清。雁之助さん自身も戦後のドサクサの時代に“放浪”していた経験がある。旅回りの一座から一座へ、あすをも知れぬ生活だったという。裸の大将に、「役作りはしていない」と言うほど没入していた理由も、もう一人の「清」と二重映しになる思いがあったのだろう。
一方で、「裸−」を演じるためどんな寒い日のロケでもランニングシャツ1枚。ふっくらとした体形を維持するため、持病の糖尿病に悪いと知りながら腹いっぱい食べ続けた。最後は自らの意志でピリオドを打った。
一方、舞台俳優としても卓抜した存在感を示し、森光子さんと共演した「おもろい女」では大阪漫才界のスターだったミスワカナと一郎の一郎役を“巧演”した。
「番頭はんと丁稚どん」のプロデューサーだった澤田隆治さんの話 「舞台役者としては主役を立てる名脇役だし、台本も書けば演出もする、歌も歌える。全体を見渡せて何でもできる人だった。(恩師だった)花登筐さんとのちに決別したり、いろいろあったけれど、長い闘病生活はつらかったでしょうねぇ。ゆっくり休んでください」
森光子さんの話 「突然の知らせに大変驚いております。(昭和53年の)舞台『おもろい女』で初めて共演させていただきました。漫才の役は難しく、ずいぶん雁之助さんに助けられました。大事な方がお亡くなりになったこと、さびしい思いです」
喜味こいしさんの話 「芝居がすばらしかった。ミヤコ蝶々さんや森繁久弥さんからは“雁之助でなければ”と直々に指名されてました。大食でね。地方公演でも朝食のあとおにぎりを買うて大好きなカメラを持って写しながら食べてたのが印象に残ってます」 |