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産経新聞提供 SUMiRE STYLE
6月13日(木)大阪夕刊
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小林一三氏のロマン、ビジネス
歌劇団誕生の裏に…

2002_OS001613.JPG 明治末か大正時代に、慶応義塾の分校を今の大阪府豊中市に誘致するための敷地買い上げが終了したことを知らせる当時の豊中村長の手紙が、13日までに見つかった。阪急電鉄の創始者、小林一三が分校を豊中に誘致しようとしたものの結局断念し、地元に違約金を払った言い伝えが残っており、それを裏付ける資料。宝塚歌劇やターミナルデパートなど、小林一三の鉄道沿線開発をめぐる成功物語の裏に埋もれたエピソードとして注目を集めそうだ。

手紙は、豊中市が市史を編纂(へんさん)する過程で、市民から収集した資料の中から見つかった。

豊中村長を務めた渡辺安太郎が差出人で、「慶応義塾敷地買上ノ件、今般漸(ようや)ク終了ヲ告ケ…御報告申上候…」と、誘致に向けて土地収用を完了したことが記されている。

手紙の別紙には、買収土地五町八反七畝十五歩(約5万8000平方メートル)の代金が1万8226円33銭であることが書かれていた。

あて名以外はすべて印刷文で、同一の手紙を複数の人に出したらしい。また、9月25日の日付があるが、年号は書いていなかった。渡辺安太郎は明治32年から大正4年まで村長を務めており、この間に発送されたものらしい。

市は「村の議員や地主といった大勢の有力者に報告するため、送ったのでは」とみている。

慶応義塾によると、明治6年から8年にかけて、地方の学生が就学しやすいようにと、最初の分校となる「大阪慶応義塾」を大阪市内に開校。京都や徳島にも同時期に分校が置かれた(いずれもその後、閉鎖)。しかし、豊中に分校を誘致したという記録は、市や慶応義塾にもない。

一方、郷土史家が昭和28年に地元住民からの聞き取りをまとめた資料には、「小林一三の依頼で、慶応義塾の分校を建てるための土地を売り渡すことを村会に諮って賛成を得たが、その後、鉄道が敷設され運動場が設置されたので、小林氏は違約金を村に支払った」とある。

このため、市では「手紙は、慶応義塾分校の誘致話が本当にあったことを裏付ける資料になる」とみている。

小林一三は明治40年に箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)の設立にかかわり、43年に現在の宝塚線や箕面線を開通させた。その後、駅周辺に住宅や行楽施設、百貨店を設ける独創的なアイデアで沿線の活性化を図り、鉄道経営を成功させたことで知られる。

市は「阪急沿線には教育機関も積極的に誘致させたのに、なぜ慶応義塾の豊中分校は実現しなかったのか。小林一三や阪急電鉄の沿線開発史を研究する上で、興味深い」と話している。

■小林一三(こばやし・いちぞう) 山梨県生まれ。明治25年、慶応義塾を卒業。銀行勤めを経て40年に箕面有馬電気軌道(今の阪急電鉄)創立の発起人に名を連ねて専務に就任、後に阪急の社長となる。会長退任後は商工相や国務相を歴任。茶道や美術などにも造詣が深く、生前のコレクションは逸翁美術館(大阪府池田市)で紹介されている。


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