産経新聞社

メタボリックシンドローム

【検証 メタボリックシンドローム】岩手県「大迫研究」が世界基準に

 ■「家庭血圧値」で脳卒中を予測

 岩手県大迫町(現花巻市)で23年に及び、「家庭血圧」を測り続けた「大迫研究」が注目を集めている。先月発表された日本高血圧学会の「高血圧治療ガイドライン2009」で、メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)の概念の導入とともに常時、家庭で測る血圧が一番信憑(しんぴょう)性が高いとして、病院の「診療室(外来・随時)血圧値」に加えて「家庭血圧値」の重要性が改めて強調されたからだ。家庭血圧を用いれば、高血圧に伴う脳卒中や心血管病などの予測も高精度で可能となり、大迫研究の成果がWHO(世界保健機関)などの世界基準ともなっている。花巻市では、特定健診・保健指導の際にも家庭血圧測定を導入しており、こうした試みが全国的な規模で展開できれば、脳卒中などの予防とともに医療費の大幅な削減も期待できそうだ。(大串英明)

 □東北大学大学院臨床薬学 今井潤教授

 ■花巻市、特定健診でも導入

 「確かにメタボリックシンドロームの本質的な概念は非常に重要ですが、腹囲が正常だからといって安心できず、個々の疾病リスクも下げなければいけない。日本では、3500万台、おおよそ1世帯に1台の割合で家庭血圧計がある。われわれは、今年度からの特定健診・保健指導でも家庭血圧を導入すれば効率的で、ものすごくいい効果が期待できると考えているのです」と長年、大迫研究をリードしてきた東北大学大学院薬学研究科の今井潤教授は語る。

 大迫研究は、1986年岩手県の中央に位置する旧大迫町(2006年花巻市と合併)でスタート。当初、今井教授が同級生の岩手県立大迫病院長から、地域住民の健康意識の向上に向けて相談を受けた折、家庭血圧や24時間測定の「自由行動下血圧」の研究に取り組んでいた今井教授が行った「自分で血圧を測るという能動的な行為が効果が上がるのでは」という提案に合意、乏しい研究費から全世帯に家庭血圧計を配り、7歳以上の全住民を対象に測定を始めたのだった。

 大迫町は、当時人口9600人。2004年には6400人と“過疎の町”になっていったが、研究は長期に継続。10年以上もたつと、家庭血圧と死亡、脳卒中や心筋梗塞(こうそく)など心血管病の発症、予後などとの関係が次第に明らかになってきた。検査も濃密になり糖尿病検診に加え、動脈硬化指標の頸(けい)動脈エコーや脈波伝播(でんぱ)速度、さらにMRI(磁気共鳴画像装置)を使った検査にまで発展していった。

 その結果、脳卒中などの発症予測も、病院の診察室で調べる「診察室血圧」と比べ「家庭血圧」は、格段に予測能がよい▽心拍数が高い人ほど死亡率が高い▽睡眠中の血圧低下が低い人ほど病気になりやすい−ことなど多くのエビデンス(科学的証拠)が明らかになってきたのである。

 要は、「診察室血圧」では、医師の前で急に血圧が上がってしまう「白衣高血圧」や、逆に低く出る「仮面高血圧」などの現象が起こるのに対し、自宅で常時測る家庭血圧は病気とより強く関連し「真の血圧」により近い数値であること。最高血圧では、男女ともすべての年齢層で診察室血圧が、およそ5mmHgほど家庭血圧よりも高くなっていたことだった。「一番びっくりしたのは、医療費が減っていたこと。死亡率も、脳卒中はそれほど減ってはいないが、意外なことにがんの死亡率が減少している。要するに大迫研究でわかったことは、高血圧診療というのは、家庭血圧が代表因子であり、意識しないうちに予防医学の実践につながってきていること。早期にスクリーニングされて医療機関にかかる率も高くなるので、結果としてがんの早期発見ができたのかもしれません」と今井教授。

 大迫町の総死亡率は、近隣の5町村と比べても、昭和56〜60年代に多かった総死亡が平成3〜7年には逆転し、その一方でがんによる死亡率も、平成元年あたりを境に、急激に下がってきている。がんの死亡率減少が総死亡の減少につながっているというわけだ。脳卒中は全般的に増加しているものの大迫町の場合、増加率は近隣と比べても格段に低く、増加率も暫時減る傾向にあった。こうした病気抑制の結果、医療費(国保被保険者1人当たり増加率)も、例えば、他町村では、1986年からおよそ10年間でおよそ80%増えているのに対し、大迫町では、50%ぐらいしか増えておらず一番増加率は減少していたのだった。

 今井教授は「結局家庭血圧を測ること自体、ある種の介入になっている。大迫町では、家庭血圧を測ることがごく一般的になっていて、数値もはっきり出るので、保健の指標としても極めて波及効果があったのです。血圧を気にするようになれば、当然メタボやがんにも注意するようになるわけです」と話す。

 ■医療費削減にも効果期待

 実は、大迫研究のように家庭血圧を測定する長期地域研究は、わが国ばかりか世界でも唯一。それは世界でも驚くほど家庭血圧計が普及しているわが国ならではだが、研究に対する住民のアクティブな姿勢にも助けられている。1996年には米国合同委員会、1999年にWHO(世界保健機関)、2007年からは、欧州高血圧学会のガイドラインに、この大迫研究のエビデンスが取り入れられている。そういう意味では、日本が家庭血圧に関しては、最大の先進国でもあり、大迫研究が家庭血圧の世界標準となっているのだ。

 わが国の高血圧診療も、今回のガイドラインでは、大迫研究を根拠に、従来の診察室血圧から家庭血圧重視へ、大きくカーブを切った。例えば、前回2004年から「高血圧」の基準を診察室血圧(140/90mmHg)と家庭血圧(135/85mmHg)に分けているが、今回初めて、「降圧目標」として、「家庭血圧値」を設け、糖尿病がある場合は、診察室血圧130/80▽家庭血圧では、125/75未満としているが、これらも大迫研究に倣ったもの。大迫研究では、125/75が診察室血圧140/90に相当し、従って125/75が「正常血圧」とされるが、ほかの基準でも総じて、家庭血圧は診察室血圧より5mmHgほど低くなっており、家庭血圧の高血圧基準は、世界のガイドラインとも共通性を持たせ、135/85とした。この数値は、家庭血圧での高齢者や脳血管障害患者らの降圧目標値ともなっている。

 今井教授は「かなりきつい降圧目標だと思う。しかし、大迫研究では、125/75mmHgが正常上界。それ以上はもう血圧が高いという考え方なのです。日本人の場合は、血圧を下げておくことが脳心血管病を起こさない最大の効果を生む。家庭血圧をどこまで下げたらいいのか、というメルクマールと考えてもらってもいい」と語る。

 メタボの概念も取り入れられている。高血圧の管理計画と連携して「リスクの層別化」を行った際には、正常高値血圧(130〜139/85〜89)でも、メタボを合併していれば、「中等リスク」▽糖尿病やCKD(慢性腎臓病)を合併していれば、「高リスク」と明記、発症する心血管疾患の危険因子にも留意することを強調している。数年前からは、薬剤を使った全国規模の「HOMED−BP研究」に取り組み始めた。これも家庭血圧を指標として3種類の降圧薬を使い、軽中等症高血圧患者の予後や臓器障害の退縮効果の比較試験を行っている。大迫研究の発展形として、来年早々には、どの薬を使って、どれぐらい血圧を下げたら脳卒中の発症率が減るかなど、薬物介入と降圧レベルの関係などのエビデンスがはっきりしてくるだろう。

 もうひとつ、今井教授らは、地域住民の同意を得て、高血圧や脳心血管病と遺伝子の関係も解析し始めている。「大迫研究で二十数年も追跡調査していると、どういう遺伝子を持った人が高血圧になるかということもわかってきたのです。それも家庭血圧でその人本来の固有の血圧をとらえているから可能になったことで、そういう人たちに対する介入がどうなるか、大事なことなのです。いってみれば、テーラーメディスンが可能になるかもしれません」と今井教授。

 今井教授らは、実は、家庭血圧の「医療経済分析」も行っている。脳卒中の予防や薬代なども勘案して試算したところ、5年間で4兆8000億円、1年間で約1兆円の医療費削減になるとしている。仮に1回受診ごとに20点(200円)ついたとしても年6回で家庭血圧の判定・指導にかかる費用は480億円しかからず、その差額分9520億円の削減が可能になるとの判断だった。

 今井教授は「日本人の血圧レベルは、今から40年前と比べると、連続的に下がってきています。これは、いわばじゅうたん爆撃みたいに、リスクがあろうがなかろうが、一般の人々に対して減塩などで血圧を一斉に下げる運動や薬の進歩が功を奏してきたわけです。今回のメタボの特定健診・保健指導も、ある部分で今までのポピュレーション・アプローチのやり方を踏襲していますね。家庭血圧の測定がスタンダードになってきた現在、アウトカム(結果)として、特定健診の評価の1項目に家庭血圧を入れるのも、とても大事なことだと思います」と語っている。

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【プロフィル】今井潤

 いまい・ゆたか 東北大学医学部卒業。豪・モナッシュ大学研究員、東北大学第2内科助教授などを経て平成11年、同大学院教授。高血圧・疫学・臨床薬理を専門分野とし、文部科学大臣賞など多数。

(2009/02/11)