【ウェブ立志篇】米ミューズ・アソシエイツ社長 梅田望夫

居心地のいい社会とは

【ウェブ立志篇】米ミューズ・アソシエイツ社長 梅田望夫  居心地のいい社会とは

 今年のノーベル化学賞を受賞した、米パデュー大特別教授の根岸英一さんは、受賞決定後の記者会見でこう語ったという。「日本はすごく居心地のいい社会なんでしょうけれど、若者よ、海外に出よ、と言いたい。たとえ海外で成功しなくとも、一定期間、日本を外側からみるという経験は何にもまして重要なはず」

 「居心地のいい」はカンファタブル(comfortable)であるが、米国ビジネス社会ではよく、「コンフォート・ゾーン(comfort zone)を超えよ」という表現が使われる。コンフォート・ゾーンとは、そこにいれば安心できる慣れ親しんだ場所のことである。

 すでにやり方がわかっている分野の通常の仕事において、目標を定め、ひたすら努力を重ね、ギリギリいっぱいまで成果を出すという営みは、たとえそれがどんなに忙しかろうとも「コンフォート・ゾーンを超える」とは言わない。既知の分野、今いる場所から、新しい分野、未知の世界に向けて、自ら飛び出す、チームを、組織を引っ張っていく。そんな果敢な挑戦を促す言葉が「コンフォート・ゾーンを超えよ」なのである。根岸教授の日本の若者たちに向けた言葉には、こういう意味が含まれている。

 13日のニューヨーク株式市場で、米アップルの株価が300ドルの大台に乗った。時価総額はこの1年で約1000億ドル増え、2700億ドルを突破した。斬新で画期的な2つの製品「iPhone(アイフォーン)」と「iPad(アイパッド)」の爆発的ヒットゆえである。その躍進の背後に、創業者兼CEO(最高経営責任者)スティーブ・ジョブズのカリスマ的なリーダーシップがあることは、本欄でもたびたび指摘してきた通りである。その彼が、かつてこう語ったことがある。

 「より革命的な変化に、私は魅了され続けてきた。自分でもなぜだかわからない。なぜなら、それを選べば、もっと困難になってしまうからだ。より多くのストレスを心にかかえこむことになる。みんなに、おまえは完全に失敗した、といわれる時期もおそらくあるだろう」

 この短い言葉には、「コンフォート・ゾーンを超える」挑戦の苦しさが凝縮されている。先が見えない困難ゆえのストレスを抱えながら、慣れ親しんだ世界に留まる人々からの批判を受ける中、成功の保証など何もない世界を疾走してはじめて、大きな果実を得るのである。

 むろんすべての人がそんな過酷なことに挑戦する必要はない。しかし「コンフォート・ゾーン」を超えようとする志の高い若者が一人でも多く生まれてほしいと望み、未知の世界に挑戦する彼ら彼女らの足を引っ張るのではなく、皆で応援する社会でありたい。しかし…。

 同じ記者会見の中で根岸教授は、「いざ博士号を取得して日本に帰ってみると、日本には私を受け入れる余地はまったくなかった」とも語った。「すごく居心地のいい社会」と、この閉鎖性は表裏一体の関係にある。根岸さんが本格的に日本を離れてから四十余年が経過したが、その間にどれだけ日本は変わっただろうか。いま日本を覆う閉塞(へいそく)感を払拭(ふっしょく)するために、私たちが問わなければならないのは「すごく居心地のいい社会」の意味なのではないだろうか。(うめだ もちお)

2010年10月25日付 産経新聞東京朝刊


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