「インフレ予想」で動き出すカネ

【日曜経済講座】編集委員・田村秀男

インフレ予想で

 ■恐るべきデフレの「乗数効果」

 経済とは予想の産物である。消費者は値段が上がると思うと店に足を運び、下がるとみると買い控える。企業は自社製品の価格が上がるとみれば増産するし、下がる見通しだと減産に動く。経済学で言うインフレとは物価が先行き上がり続ける予想が、デフレは下がり続ける予想が世に定着しているという意味だ。

 ◆所得減少は急ピッチ

 厄介なことに、現実の物価ではなく、その予想が現実のわれわれの懐具合を大きく変えてしまう。15年間にわたって、デフレの日本では、物価の下落をはるかに上回る速度で所得が減ってきた。

 国際的なインフレ指標であるエネルギーと食品を除く総合物価指数、コアコア消費者物価指数(CPI)は15年間で約8%下落したが、勤労者収入は15%強、名目国内総生産(GDP)は約1割減った。年率に換算すると、物価はマイナス約0・5%なのだが、勤労者所得はマイナス約1%と2倍の速度で下がっている。月に直すと4800円ずつ前年比で下がってきた。GDPはマイナス0・7%弱となる。対照的に、インフレ時は物価の値上がり以上に所得もGDPも増えている。インフレ時代の日本人は豊かになり、デフレ期は貧乏になるばかりである。

 経済学では、ある項目の影響を受ける他の項目の変動幅の比率を「乗数効果」と呼ぶが、1998年から始まった日本の慢性デフレによる勤労者収入への負の乗数効果は約2、名目GDPは1・2弱となる。物価が下がっても所得が下がらない人は大満足だろうが、子供たちを育てながら年金世代を養う現役世代が乗数分以上に困窮化する。デフレは極めて不公正な格差を社会にもたらすのだ。

 日銀の白川方明総裁は2009年12月にテレビ番組で、「デフレを実感したことがあるか」と聞かれて、「奥さんと一緒に食事に行ったりすると、これだけの内容のものがこれだけの値段で食べられるのかと驚くこともある」と答えたそうだ。セレブ主婦感覚の人物に脱デフレを求めるのはそもそも無理だ。

 グラフは1973年以来の日本の名目GDPとコアコアCPIの前年比を3年間平均でみている。3年間にしたのは、この間に石油危機(73、79年)、プラザ合意(85年)、リーマン・ショック(08年)など外部要因による変動をならして、趨勢(すうせい)を把握するためだ。

 ◆「処方箋」は明らか

 物価の下落以上に実体経済が落ち込むのは、冒頭で述べたような需要(消費)と供給(生産)双方のマイナス効果が重なり合って増幅、連鎖するからである。消費者がモノを買わずにおカネをタンスや銀行預金に寝かせる。需要が減り、収益が減る企業は設備投資も雇用も手控えるので、とどのつまり家計を直撃、そして企業経営に跳ね返る。

 この悪循環の結果、15年間のデフレ期で家計の金融資産は224兆円増えて1509兆円(昨年9月末)に、企業の現預金は42兆円増の224兆円(同)に上る。経済を成長させるカネという血液がたまっても流れないのだ。

 こうみると、脱デフレの処方箋(せん)は明らかだ。消費者や企業がおカネを使う環境を整えることだ。そのためには物価の下落予想を上昇予想に転換させる必要がある。安倍晋三首相が「2%の物価目標(インフレ目標)」を求めるのは至極当然だ。インフレ目標とはただちに物価を上げるという意味ではない。物価が全般的に上がるという予想を一般に行き渡らせて、金(カネ)を溶融させる、つまり金融を正常化させるのだ。

 ◆不透明な規制緩和

 対する日銀は一応、インフレ目標導入を検討しているが、目標達成義務を負わされたくない。白川氏は、「国民が求めるデフレ脱却とは景気を良くしてほしいということと同義で、雇用が確保されて賃金も上昇し、企業収益も増えてその結果として物価も上がっていく」(12月28日、日経新聞とのインタビュー)と述べている。まず景気をよくしろ、そうして物価が上がれば、めでたく「脱デフレ」だとのたまう。そのためには、規制緩和など政府の政策が大事ですよ、とささやくのである。そもそも中身が不明な「規制緩和」に脱デフレの効能があるとは、何の理論的根拠があるのだろうか。

 白川氏は「日銀の生活者調査では国民の8割以上が物価上昇をどちらかというと望ましくないと回答している」(同)と、インフレ防止を重視し、脱デフレについては一貫して金融政策の限界を唱えてきた。周りからの圧力が加わるごとに、小出しに次ぐ小出しの日銀資金追加に終始し、逆にデフレ・円高を高進させた。1円も使わない安倍発言が大きく流れを変えたのと対照的である。日銀はインフレ目標以前に、これまでの誤りを全面的に認め、出直すべきなのだ。

2013年1月20日 産経新聞 東京朝刊


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