号外「東京五輪決定」

運命の一瞬と動きだす編集局

その日の編集局には、朝刊の締め切り時間からかなり経った明け方にも関わらず多くの記者が残っていた。落ち着かない雰囲気の中で、記者たちはテレビ中継をじっと見つめていた。
2020年夏季五輪開催地決定。

4年に1度、世界規模で催されるスポーツの祭典の会場が、まもなく決まろうとしていた。この日、東京が開催地に決定すれば号外が出る。その紙面編集のために運動部、整理部を中心として記者たちは待機していたのだ。

1度目の投票で東京が首位に立った瞬間は記者たちの顔にも安堵や喜びの表情が浮かんだ。しかし、マドリードとイスタンブールの投票数が同数となる波乱が起き、運動部では、予定稿の手直しが急ピッチで進められた。さらに「五輪招致では逆転劇が多い」というジンクスが囁かれていたこともあり、編集局はいいようのない緊張感に包まれていった。

そして、午前5時。ファンファーレが鳴り響き、ついに結果が発表される時がきた。編集局中の記者が決定の瞬間に身構える。しかし、5分、10分と経っても一向に発表は始まらない。しびれを切らした記者のひとりは、冗談交じりに「もうどちらでもいいから早く決まってくれ」とこぼした。そんな中、とうとうジャック・ロゲIOC会長が開催都市の名前が書かれた封筒を開いた。

「TOKYO 2020」

次の瞬間、画面に映るブエノスアイレスの会場が爆発音のような歓声で揺れた。プレゼンテーションを行った選手たちは握手を交わし抱き合って喜びを分かち合い、興奮と熱狂の拍手はいつまでも鳴り止まなかった。

編集局もまた、決定の瞬間には拍手と歓声で高揚感に満ちあふれたが、余韻に浸る間もなく、記者たちはすぐに号外編集に取り掛かった。

記事と時間との戦い

「2020年 東京五輪」

紙面レイアウトを表示したパソコン画面に号外の見出しが入力されると、整理部の担当者らが集まり見出しやレイアウトへの意見が飛び交った。降版までの限りある時間の中で、少しでも質の高い紙面を作ることが彼らの仕事だ。その隣では、運動部のデスクらが現地をはじめ、取材に出向いている記者に電話をかけ情報確認に追われた。号外作りはスピードとの勝負だが、事実関係が違っていては元も子もない。予定された降版時間が迫る中、この二つの部署が要となりテキパキと作業が続く。

写真報道局から届けられた写真の選別も始まった。会場の熱気と興奮がひと目でわかるものでなくてはならない。「手が邪魔だ」という理由で差し替えられた写真もあり、細部の構図にまで読者目線のこだわりが表れる。写真が決まると、文章とのバランス調整が始まる。

紙面レイアウトがほぼ完成しても、新しい情報が次から次へと入ってくる。首相のコメントが出たという情報が入れば即座に原稿が差し替えられる。新しい情報を組み込むたびに紙面が更新され、その都度レイアウトの調整が始まる。積み重なったゲラ刷りを見ると、少しずつ紙面が充実していくのが目に見えてわかった。

「敬称もちゃんとチェックしておけ」「サンスポのゲラはこっちだ」「票数のグラフ間に合わないかな」「この写真に映っているの誰だかわかりますか」「降版まであと何分だ」……。窓の外が白んでいくのに比例するように記者たちの動きが活発となっていった。

そしてギリギリまで写真のトリミングが行われ、ついに降版の時間となった。慌ただしかった編集局にやっと平穏が訪れると、安堵の声があちこちで漏れた。そんな中、どこからか「天気は大丈夫か?」という声が聞こえてきた。窓の外を見ると、東京の空には曇天が広がっていた。

号外から見えた新聞の価値

午前10時。まだほのかにインクの香りがする号外の束を抱え、社員たちが次々に会社を飛び出して行った。空は今にも雨が降り出しそうな分厚い雲に覆われ、号外の配布もまた時間との勝負であることがうかがわれた。

危惧することは、天気の他にもうひとつあった。人々が、号外に興味を示し、手に取ってくれるかどうかだ。50年前の東京五輪の時とは違い、今回はテレビやネットニュースで未明の開催決定を知っている人が多くいる。そんな中で、果たして紙で配布する号外に存在価値があるのかどうか。

しかし、社員の不安をよそに、号外の配布が始まると多くの人々が手を伸ばしてくれた。中には自ら号外を受け取るために近づいてくれる人もいた。号外は次々にさばけていき、社員の腕の束はどんどん軽くなっていった。

もちろん、号外を受け取る人の多くはすでに東京が五輪の開催地に決まっていることを知っていた。しかし、それでも号外に手を伸ばしてくれたのは、新聞が伝える情報の価値を信じてくれていたからに違いない。

興味深かったのは、「記念に欲しい」と号外を受け取る人々がいたことだ。そこに、他メディアにはない新聞の強みを見ることができた。印刷されればもう差し替えることができない紙の媒体は強い証拠性を帯びる。社会に情報が溢れ次々に流れていく現代において、情報を紙に刻み込む新聞は歴史の証明として風化することなく残り続ける。だからこそ、今回の号外も多くの人が手に取ってくれたのだ。

結局、雨が降り出すこともなく号外は一時間足らずで全て配り終えられた。刷りたての新聞を配り終えた社員の指は、インクで黒く汚れていた。

7年後の世界へ

「純粋に喜べない自分が悲しい」。五輪の東京開催が決定した瞬間の編集局で誰かが漏らした言葉だ。五輪が東京で開催されるということは、新聞記者にとって目が回るような忙しい日々が待っているということを意味する。それは今回の号外編集とは比べようもないほど忙しい不眠不休の日々になるかもしれない。しかし、「新聞でしか作り出せない価値」を待っている読者がいる。記者にしか取材できない現場があり、それを読みたがっている読者がいる。

ひと段落した編集局では、感動に浸る余裕が再び生まれていた。ベテランの記者が「次のオリンピックが開催される7年後には、君らが最前線に立っているんだからね。よろしくな」と新人記者を勇気づけていた。声をかけられた新人記者は、記念すべき瞬間に立ち会えた感動と、東京五輪を取材できる期待と興奮で頬を紅潮させていた。

7年後の号外では、金メダルを掲げる選手たちの記事が載るにちがいない。そして、その記事を書いているのは、もしかしたらその新人記者かもしれない。
※この記事は2013年に作成されました。

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