産経は「御嶽山」をどう伝えたか

噴火で灰一色になった御嶽山(長野、岐阜両県)の山頂付近。ひとりの女性が石造りの台座に寄りかかり、わずかに右手を動かすようなしぐさを見せている。噴火の翌日、平成26年9月28日に写真報道局の大山文兄記者が空撮した写真は、翌29日の朝刊一面に大きく掲載され、生々しい現地の状況を読者に伝えた。死者58人、行方不明者5人という戦後最悪の火山災害となった御嶽山噴火。産経の記者たちは、それぞれの立場で災害取材にどう向き合ったのか。

現場でのもどかしい思い

三宅 真太郎

東京編集局長野支局
みやけ しんたろう
三宅 真太郎
平成26年入社
東京編集局長野支局

「御嶽山が噴火した」―山岳イベントの取材でシャッターチャンスをものにしようと忙しく動き回っていた長野支局記者の三宅真太郎に、支局長から一報が入った。「噴火? 御嶽山ってどこ?」。新人記者として支局に配属されて数カ月。すぐには状況を呑み込めなかったが、とにかく御嶽山目指して出発する。産経新聞のすべての記者で、いま現場に向かっているのは自分しかいない。三宅はプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、とにかく車を走らせた。

長野県木曽町、王滝村と岐阜県下呂市、高山市にまたがる御嶽山。三宅は王滝村の役場に到着し、職員を捕まえて取材を始めた。しかし、小さな役場にとって前代未聞の噴火。誰に聞いても「分からない」と返答された。「登山口に行って、下山して来る人たちに聞いたほうが早い」とまで言われ、規制線ぎりぎりの5合目まで登った。学生時代に山岳経験のある三宅は、自分なら行ける、もっと上に行きたい、記者として現場を見たいと思ったが、消防団に止められた。

支局長から「今、分かっていることを全部まとめろ。現場の雑観(記事)だ」と指示を受けた。締め切りまであまり時間はない。しかし、情報とくに被災者の人数などの数字は錯綜した。記事には裏付けの取れた数字しか載せることができない。「被害はもっと大きいはずだ」。現場にいる三宅には直感的にわかったが、それをどう表現すればいいのか、もどかしかった。

雑感記事の仕事がひと段落ついたころ、現場に入ってからずっと何も食べず取材に追われていた三宅に、東京本社から応援に来た記者がおにぎりを分けてくれた。一瞬、緊張が解けた。おにぎりの味は覚えていないが、「ひとりじゃない」という安堵感を得られたのは覚えている。

読者に伝えるということ

「御嶽山の取材で、何よりも記事を目にする読者というものを意識するようになった。悲惨なんていう言葉じゃ片づけられない、人生が一瞬で180度変わってしまうこの現実を、どれだけ伝えられるのか。読んだ人がどう受け止め、考えるか、ということまで意識するのが大事だと思った」

被災者や家族の無念さ、登山時の安全確保策の重要性、被災した地域へのさまざまな支援のあり方などについて、記事を読んだ人に思いをはせてもらえれば―。三宅はそう思うようになったという。

その後、支局での取材を通じて、三宅は自分の書いた記事のコピーが県庁などの役所をはじめとするさまざまな団体の会議などで「産経にはこう書いてあった」という形で使われるのを目にした。もちろん裁判で提出される資料となったり、それこそ遺族の人が自分の書いた記事を持っていたりもする。単なる記録や思い出という以上の「決して消えない、手元に残る形」として。記者の思いが読み手にきちんと届く報道には、そういう役割もあることに気づいた。

迷わず手にした超望遠レンズ

三宅 真太郎

東京写真報道局
おおやま ふみえ
大山 文兄
平成9年入社
大阪写真報道局配属。
東京写真報道局へ異動、現在東京写真報道局部次長

御嶽山が噴火した時、東京本社写真報道局のカメラマン(当時編集委員)である大山は、宿泊勤務明けのデスクを務めていた。前日、出勤してから24時間が経つ。「もうすぐ退社できる」と、のんびり構えていた大山だが、噴火は次第に大惨事であることが分かった。連続勤務で思考能力の低下する中、すぐにチャーターしたヘリコプターで現場に向かった。

ヘリからの撮影は100~400ミリ程度の望遠レンズを用いるのが一般的だ。しかし、機内では三脚などカメラを固定する機材は使えない。また、現場の空域では各社もヘリを飛ばしているため、ホバリング(空中で飛行停止する状態)ができず、つねに大きく振動する。捜索の邪魔になるのを避けるため山肌には近づけない。撮影の条件としては、通常よりも遥かに難しい状況だ。

そんな中、大山は800ミリの超望遠レンズをカメラに装着した。ただでさえ難しい条件であるにもかかわらず、さらに難易度の高い機材を選んだのだ。大山には技術と経験があった。7年間に及ぶ新潟でのトキ放鳥取材の際、最上の画質を求めてつねに使い続けて慣れ親しんだ機材が、このレンズだった。

大山はこれまでも多くの事件・事故取材に携わり、大阪教育大付属池田小事件取材の時に新聞協会賞(平成13年度)を受賞した。しかし噴火の取材は今回が初めてだった。 「事件や事故の取材はピンポイントだが、この噴火は山全体が現場。まずそのスケールの大きさに飲み込まれそうになった。自分を落ち着かせるために、山頂から離れて全体を見渡した」

ヘリには社会部の記者も同乗していた。一人が窓から捉えられる視界は限られているため、お互いに窓から何が見えるかを報告しあって情報を共有した。すると、社会部記者が山頂付近の石が積まれた台座付近に横たわる女性を発見した。揺れる機内から、かろうじてファインダーにとらえる。助けを求める生存者だろうか…。

何とか撮影できた一連の画像をすぐに機内で確認した。リュックの位置、手の位置、顔の角度が、画像によって変わっていた。「生存者だ」―。最初に女性の姿を発見した社会部の記者と「よかった」と喜んだ。のちに、この写真は「大災害のすさまじさを想起させる写真はニュース性が高く、多くの人に衝撃を与えた」として、平成27年度の新聞協会賞を受賞した。大山自身2度目の受賞となった。

神輿の担ぎ手にならないように

「賞を取るために報道写真を撮っているわけじゃない」と言い切る大山は、この写真に写っている女性の気持ちを考えると、申し訳ないという思いがあることを分かってほしいという。そんな大山が現場に行った時に気を付けているのは「高いところから俯瞰する余裕を持つようにする」こと。

「よくメディアスクラムといわれるけど、周りの人たち(取材陣)がワーッと取り囲むと、自分ではよくないと思っても、そこに加わらないと自分だけが聞き漏らす、特オチ(自社だけがあるネタを取り損なうこと)する。だから駆り立てられて、知らないうちに、みんな『祭り』に入り込んでしまう」

だからこそ大山はヘリ取材が好きなのだという。「現場に行くと、記者なら他社で同期入社の人とかと友達になって一緒に取材することもあると思うけど、その『お祭り』の中からひとり抜けるのは結構、難しいし、カメラマンもそう」。だが、空中では「取材者同士でお互いに会話が出来ないから、自分で行きたいところに勝手に行って取材できる」からだ。

「一歩引いて、高い所から俯瞰する余裕がないと、『お祭り』の神輿の担ぎ手になって終わってしまう」―大山が数々の現場経験から得た教訓は、今回の災害報道でも確かに役立っていた。

伝えるべき事実とは

三宅 真太郎

東京編集局社会部
いからし はじめ
五十嵐 一
平成20年入社
東京編集局水戸支局配属。
大阪編集局京都総局へ異動、舞鶴支局を経て東京編集局社会部

噴火当時、東京本社社会部で警視庁捜査2課を担当していた五十嵐は、都内で取材中に本社から指示を受け、すぐにハイヤーで現地へと向かった。「御嶽山」と言われても詳細には分からない。車内でできるだけ情報を取るよう努め、現地へ向かっていた他の記者たちとも連絡を取った。

伊豆大島そして広島での土砂災害取材に携わってきた五十嵐にとって、この噴火の取材現場は少し勝手が違っていた。到着はしたものの、他の現場のような何かに圧倒されるような感覚がない。立ち入りを禁止する規制線が頂上付近からはるかに離れた場所に張られ、現場を目にすることができなかったからだ。加えて、被災者の多くは長野県外在住だったため、地元完結型の取材とはならなかった。

そういう状況の中で、記者として伝えるべきことは何か。当初は「山が爆発する」とはどういうことか、普段生活していて想像しづらい噴火の深刻さ、すさまじさを紙面で展開した。直接、噴火の現場を見られないもどかしさを感じつつ、可能な限りの臨場感を伝える。そして、状況を複雑にしていた「助けたくても助けられない」という点にも注目した。

県警、消防、自衛隊そして行政、誰しもが一刻も早く全員の救出をしたいと願っていたが、微弱な噴火が続く中、作業は困難を極めた。過酷な訓練に耐え、屈強な肉体と精神を兼ね備えた自衛隊員が、思うように救助できない状況を前に「悔しい」と目を潤ませる。死と隣り合わせになりながら救出を続ける彼らの姿を読者に知ってほしい。ぎりぎりの攻防と葛藤を記事にした。

犠牲を無駄にしない姿勢

情報が錯綜する中、次第に犠牲者の氏名などが判明していった。噴火から3日経つと、犠牲者周辺への取材が中心となった。山梨県から愛知県まで、広い範囲を移動し地道に取材を続けた。詳細な犠牲者報道に関しては「必要なのか」と批判も多い。しかし、遺族の深い悲しみ、ありのままの声を伝えるところに意義があると五十嵐は考えている。

「なぜ死ななければならなかったのか、という遺族の思い、大切な人を失って辛い中で話してくれた内容を無駄にしないように心掛けた。そうして紡いだ声を記事にし、それを目にした人の『考えるきっかけ』になってほしい」

教訓を見いだすこと、この点もまた災害報道の根幹だ。御嶽山噴火から得た教訓は、岐阜、長野両県での登山条例制定という形で生かされた。五十嵐は、「東日本大震災以降、日本はつねに自然災害と隣り合わせであるという事実を、すべて記者が改めて認識した」という。今後も必ず直面する自然の猛威に対して、被害を最小化するために何をすべきなのか。

「人間が行うことにパーフェクトはないけれど、パーフェクトに近づけることはできる。それが人間の歴史だと思う」

五十嵐は今回の噴火災害についても、東日本大震災と同じく風化させないよう取材を継続していく努力が必要だと考えている。災害報道とは、犠牲を無駄にしないように追及する姿勢を忘れないようにすることでもある。

「あの日」から一年 災害報道のあり方とは

噴火から1年後、27年9月27日付産経新聞朝刊に、大山の撮影した写真に写っていた被災女性へのインタビューが掲載された。報道写真の被写体となった本人から許しを得て、当時の状況を取材・記事掲載できたのは、批判を浴びせられることも少なくない中で、非常に稀なことだと大山はいう。

それを可能にしたのは、被災女性の抱いた、噴火による被害の「風化」に対する危機感、そして、備えの大切さを伝えたいという思いがあったからだ。もっとも、最初からインタビューするために連絡したわけではなかった。新聞協会賞受賞の報告、許諾なしに報道写真展で展示したことへの謝罪、そして今後も写真を使用することへの許可をもらうためだった。

地震、津波、噴火、台風など異なる種類の自然災害とつねに隣り合わせの日本で、災害報道の果たすべき役割は重い。はからずも実現した被災女性へのインタビューは、取材する側にとっても、過去の災害から得た教訓を未来への備えつなげるという災害報道の役割、そして、新聞の存在意義に改めて思いをはせる、またとない機会となった。

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