産経の取材現場

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東日本大震災

 「ここから先は自己責任でお願いします」。

 3月12日午前10時ごろ。前日からほぼ休みなく運転してたどり着いた宮城県南三陸町で、沿岸部へ向かおうとしたとき、声をかけられた。町の職員らしき男性は作業着にマスク、ヘルメットという姿。木の枝を警棒代わりに振り、交通整理をしているようだった。「大津波警報が発令されています。危険です」。周囲では数社のテレビクルーが車内で待機している。—自分はどうすべきか。ふと、それまでの道中で目の当たりにした景色が頭をよぎった。

3月14日の南三陸町

3月14日の南三陸町。町の合同庁舎をはじめ、ほぼすべての建物が全壊し、見渡す限りがれきの山になっていた

 道路脇や電信柱のふもとで、眠るように横たわっていた3体の遺体。一帯が丸ごと津波に飲み込まれ、ため池のようになった集落では、かろうじて家の屋根だけが顔を出していた。カーナビが示す飲食店や病院、学校などの位置情報は参考にならなかった。できるだけ高台を進むようにとの上司の指示で、相当、内陸側のルートを選んできたつもりだったが、そうだった。

3月13日の気仙沼市

3月13日の気仙沼市。100トンを超える大型船も津波に押し流され、損壊していた

3月13日の気仙沼市

3月13日の気仙沼市。一帯が焼け野原になり、救助されたとみられる男性が消防隊員から荷物を受け取っていた

 南三陸町に入っても震度5程度の余震は続いていた。宮城県警の当時の発表では、町民1万人以上と連絡がとれなくなっていた。それでも「先に進まない」という選択肢は浮かばなかった。人生で初めて命の危険を感じながら、同時に、使命感にも似た感覚を覚えていた。どこをどう切り取って伝えるのかではなく、ただ見て、聞いて、書くというシンプルな作業。それが今の自分にできることであり、しなければならないことだと直感した。

 印象に残る取材を挙げればキリがない。気仙沼市の水産加工会社の社長から「私が生きていることを記事で知らせて」と頼まれたのには驚いた。新聞にはそんな役目もあると知った。簡易な治療設備しかない石巻市の公民館にひっきりなしに運ばれてくるケガ人を撮影したとき、怒った家族からカメラを取り上げられそうになった。被災地に記者がいる意味を常に問い続け、がれきの中を歩いた。同じく壊滅的な被害を受けていた岩手県大槌町に入ったのは4月上旬。町長が津波に流されて死亡し、副町長が職務代理者を務める非常事態に陥っていた町が、これからどのようにして再興していくのか。その様子を随時報告しようと、その後の大半を町での取材に充て、連載企画を始めた。

大槌町でクリーニング店を営む男性

大槌町でクリーニング店を営む男性。各家に足を運び、津波に浸かった布団や衣類を洗濯して回っていた

5月上旬の大槌町の小学校

5月上旬の大槌町の小学校。被災した学校の生徒は、被害を免れた学校の体育館を間借りして授業をしていた

3月13日の石巻市内の小学校体育館

3月13日の石巻市内の小学校体育館。集まった人たちは床に新聞紙を敷き、身を寄せ合って寒さに耐えていた

 それこそマイナスからのスタートだ。家を失い、家族を失い、職も失った人たちは、お互いに力を合わせないと立ち上がれないことを知っていた。絆は知らず知らずのうちに深まった。陸前高田市の小学5年の男の子は、津波で倒壊した別の小学校との合同授業を通じて、友達が増えたことを喜んでいた。大槌町のクリーニング屋の店主は、店を閉めることも考えたが、海水に浸かった大事な着物をきれいにしてほしいと常連客に頼まれ、もう一踏ん張りすることにした。漁師は船の修理や海の清掃などをすすめ、すでに多くの魚が水揚げされている。逆境に立たされた人間の底力を見せつけられた。

 震災から約8カ月が過ぎた。当時着ていた黒のロングコートをまたクローゼットから引っ張り出す季節になった。仮設住宅の防寒対策や、増え続ける自殺者の抑止など、課題は山積している。被災者のそばに立ち、見聞きした率直な思いを伝えること。東北総局の記者として、目線を被災地に向け続けることは大前提だ。ただ、あのとき南三陸町で感じた強烈な使命感は落ち着いた。−一緒に歩いていきましょう。今はそういう気持ちでいる。