産経の取材現場

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リビア情勢

 チュニジアからリビアへ国境を越えたのは夜中だった。

 2011年8月24日。両国間には2つの検問所があり、リビアの首都トリポリへの近道である北のラスアジュディールはなおも封鎖されていた。トリポリへ入るには南のゼヘーバからリビア西部ナフーサ山地を通って行くしかない。だが、南ルートさえも本当に安全だと言えるのか、その時点で確実な情報はなかった。

同行取材した反カダフィ派の掃討作戦で、カダフィ大佐側との戦闘に向かう兵士ら

同行取材した反カダフィ派の掃討作戦で、カダフィ大佐側との戦闘に向かう兵士ら

チュニジア国境からトリポリへの途中には、北大西洋条約機構(NATO)軍による空爆で破壊されたカダフィ大佐側の戦車があちこちに放置 されていた

チュニジア国境からトリポリへの途中には、北大西洋条約機構(NATO)軍による空爆で破壊されたカダフィ大佐側の戦車があちこちに放置 されていた

カダフィ派からの攻撃に備え、車の窓の外に銃口を向けて警戒する反カダフィ派兵士

カダフィ派からの攻撃に備え、車の窓の外に銃口を向けて警戒する反カダフィ派兵士

 このときリビアでは、各地の反カダフィ派がトリポリになだれ込み、カダフィ大佐が立てこもっているとみられていたバーブ・アジジーヤ地区に一斉攻撃を仕掛けていた。その直前には、大佐の次男で国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状も出されているサイフルイスラム氏が拘束されたとの情報も流れるなど、42年に及んだカダフィ政権の崩壊過程は、最終段階にきていた。当時、イエメンの首都サヌアで、同国の民主化デモやサレハ大統領派と反体制派の対立を取材していた私は、取材を切り上げて大急ぎでカイロへ戻り、すぐにチュニジアへ飛んでトリポリを目指した。

 「くれぐれも無理はするなよ」。これが東京からの指示のすべてだったといっていい。危険はできるだけ避けてほしい、けれど、可能な限り早く現場からの記事が欲しい—。デスクの声にはそんな思いがにじんでいた。私も気持ちは同じだった。意識しないつもりでいても、やはり他社の動向も気になる。一歩でもトリポリに近づこうと気が急いた。

 チュニジア側検問所で出国印を押されると、おそるおそる国境を徒歩で渡り、真っ暗で無人のリビア側検問所の脇を通り過ぎた。入国印のないパスポートが、リビアが無政府状態に陥っていることを如実に示していた。

大佐の邸宅があったバーブ・アジジーヤ地区。反カダフィ派による制圧後は、同派の旗が掲げられ、トリポリ市民の観光名所となっていた

大佐の邸宅があったバーブ・アジジーヤ地区。反カダフィ派による制圧後は、同派の旗が掲げられ、トリポリ市民の観光名所となっていた

トリポリ市内で雑踏の警備にあたる反カダフィ派兵士。手には市民から贈られた花が

トリポリ市内で雑踏の警備にあたる反カダフィ派兵士。手には市民から贈られた花が

 その晩は国境に駐屯していた反カダフィ派部隊の車に乗せてもらい、早くから同派拠点となっていたナフーサ山地の町ナルートに1泊。翌日、そこで知り合ったブラジル人記者とともに、ためらうタクシー運転手を説得してトリポリへ向かった。

 当時、トリポリまでの道のりに関しては情報が錯綜しており、ナルートの反カダフィ派でさえも正確な状況は把握していなかった。後に解放されたものの、イタリア人記者4人が拘束されたとのニュースが流れていたし、混乱のなかでは盗賊・山賊のたぐいが出没する可能性さえある。1人で行動することは絶対に避ける必要があった。

 トリポリに着いてからも、どこまで進めるのかを瀬踏みしながらの取材が続いた。「○○地区にはカダフィ派の狙撃手が残っているらしい」「△△で大きな戦闘があった」…。反カダフィ派からの断片的な情報と、リビア報道で圧倒的な存在感を示していた中東の衛星テレビ局アルジャジーラやアルアラビーヤなどの報道を確認しつつ、当然ながら自分の記事も書かなくてはならない。

 トリポリの部隊によるカダフィ派掃討作戦の同行取材では、実際に部隊がカダフィ派からの攻撃を受け、眼前で銃撃戦が始まった。乗っていた車の近くで弾が跳ね、反撃する兵士たちが撃った弾の薬莢が目の前を飛んだ。このときは、相棒のブラジル人記者とともに車内で身をかがめ、興奮する頭で記事の文面を考えながらも、「車に弾が当たったらドアを貫通してくるだろうか?」と生きた心地がしなかった。そこは間違いなく「戦場」だった。

カダフィ政権崩壊に熱狂するトリポリ市民。女性たちの中には感極まって涙を流す人も

カダフィ政権崩壊に熱狂するトリポリ市民。女性たちの中には感極まって涙を流す人も

カダフィ政権崩壊に熱狂するトリポリ市民。少年たちはVサインを掲げ、「アッラー・アクバル(神は偉大なり)!」と絶叫していた

カダフィ政権崩壊に熱狂するトリポリ市民。少年たちはVサインを掲げ、「アッラー・アクバル(神は偉大なり)!」と絶叫していた

カダフィ軍基地の武器庫から略奪した新品の拳銃を自慢げに見せてくれた反カダフィ派兵士。リビアではいま、内戦中に出回った大量の武器をどう管理するかが大きな問題となっている

カダフィ軍基地の武器庫から略奪した新品の拳銃を自慢げに見せてくれた反カダフィ派兵士。リビアではいま、内戦中に出回った大量の武器をどう管理するかが大きな問題となっている

 結局、トリポリ滞在は1カ月に及んだ。当初は食事をとれる場所さえなく、毎日、チュニジアから買ってきたチョコレート菓子やビスケットを食べつないでいたが、カダフィ派との戦闘が収まるにつれて市民生活が徐々に正常化していった。水や電力事情も改善し、何より市民自らが行政不在の穴を埋めるようにごみの回収や治安維持に協力するのを目の当たりにし、リビア社会の「復元力」の強さを体感した。

 その一方で、当時はまだ中部シルトなどでカダフィ派との戦闘が続いていたにもかかわらず、トリポリに駐屯する各地の反カダフィ派部隊の間では早くも、今後の政権移行プロセスをにらんだ主導権争いが表面化しつつあった(シルトは同年10月に陥落、大佐は拘束・殺害された)。さらにアフリカ大陸有数の産油国であるリビアでは、軍事介入した米欧の石油利権をめぐる思惑も絡む。「民主化」「反独裁」といった美辞麗句では割り切れない現実だ。

 学生時代に1年、入社後にも社費のアラビア語留学で1年、エジプトに滞在しアラブ世界に関心を持ち続けてきた私にとって、2010年夏に特派員として赴任できたことは幸運だった。

 2011年1月には、チュニジアのベンアリ政権崩壊に続き、エジプトでムバラク政権崩壊につながる大規模デモが発生。治安当局が発射する催涙弾のガスを浴び、目をこすりながら現場を走り回った。「催涙ガスはな、歯磨き粉を目の下に塗るとかなり楽になるんやで。スーっとする成分が入ってるから」。外信部の先輩からもらったアドバイスは本当だった。以来、取材用バッグの中には歯磨き粉とマスクを常備するようになった。

 デモはその後、内戦に発展したリビアのほか、イエメンやシリア、バーレーンなど中東・北アフリカ各地に飛び火し、地域のパワーバランスや政治構造を大きく揺さぶっている。すでに政権が崩壊した国々も、今後の国づくりの方向性が定まっているとは言い難い。しばらくは混乱が続く中で、取材に追われる日々が続きそうだ。