11月12日発売
反日プロパガンダにトドメを刺すために 日中歴史の真実
■中国人にとって「歴史」とは何か(2)
「どうせ政府の宣伝さ」という彼らの本心を見抜け
東京外国語大学名誉教授 岡田英弘
秦の始皇帝の統一までは、中原と呼ばれる、いまの中国の中央部分には、秦・韓・魏・趙・斉・楚・燕の、いわゆる戦国七国があって、それぞれが自分の国のことばを用いており、記録を作っていた。漢字の字体も違うし、話していたことばもさまざまであった。
統一を果たしたあとの前二一九年、始皇帝は漢字の字体を統一して「篆書(てんしょ)」を創りだした。有名な「焚書」事件は、そのあとの前二一三年に起こっている。この年、始皇帝は民間の『詩経』『書経』などを引きあげて焼いたが、宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし、今後、法令を学ぼうという者は吏をもって師となす、すなわち私の学派でなく、公の機関で漢字の使い方を習うことに決めたのである。これは、それまでのように、特定の先生に弟子入りして、師資相伝で漢字を学ぶのではなく、漢字という、中国で唯一のコミュニケーション手段を公開したということであった。
ところがこれは、裏返せば、漢字の読み方を秦語にし、秦の方式に統一したということである。もともと、古代に洛陽盆地を取り巻いていた「東夷・西戎・南蛮・北狄」は違うことばを話しており、戦国七国でも漢字の字体も読むことばも違っていた。共通語はまったく存在しなかったのを、始皇帝は強引に漢字の字体を一定にし、三千三百字だけを選んで読む音も各字一つに決めたのである。
この結果、一つ一つの漢字が意味するところと、それを表す音とが分離して、関係がなくなってしまった。これを秦以外の国の人から見れば、漢字を外国語で読むのと同じことになった。もとは各地方で読まれていたそれぞれの音に意味があったはずだが、こうして漢字の音は、意味を持ったことばではなく、その字の単なるラベルとなった。
しかし漢字の読み方の統一は、時代が必要としたものだったから、そのまま秦から漢へ継承されて、一定の方式になっていった。
それから四百年が経って、後漢の一八四年、黄巾の乱が起こった。中国全土は混乱の極に達し、人口は五千六百万人あまりから、一挙に四百五十万人以下に転落した。しかもその少ない人口が、魏・呉・蜀の三国の将軍たちに分割されたのである。当然、漢字の読み方を伝えた学者も失業し、その知識も風前の灯火となった。
このとき、儒教系の学者たちは、それぞれ師匠から口伝を受けていた発音を整理して、漢字の音を伝える「反切」と、それを体系化した「韻書」というものをつくりだした。中国文化の象徴のように言われる儒教であるが、もう少しで断絶する運命であった、古い時代の漢字の読み方を伝えたことに、その存在価値があるのである。
後漢末に人口の激減した中国に、北方の遊牧民がたくさん移住し、かれらが、隋・唐時代の新しい中国人となった。六〇一年、鮮卑(せんぴ)人の陸法言(りくほうげん)は、漢字音を学ぶために、『切韻(せついん)』という韻書をつくったが、これは六〇七年にはじまった「科挙」の試験の参考書として大流行した。儒教は、その経典類が科挙の出題範囲に定められたため、宗教としてではなく、漢字の用例集としての役割を果たし、知識階級の文章の出典となったのである。
しかし、このようにしてつくられた「反切」も「韻書」も、当時の中国のどこかの方言を反映したものではなく、まったく人工的な音であった。あくまで文字の世界での出来事であって、ほんとうの中国人のしゃべっている言葉とはなんの関係もなく、中国人それぞれが独立の言語を話していることには変わりはなかった。中国は、秦の始皇帝以来、文字だけ、つまり表面だけの統一を続けて、二十世紀にいたったのである。
現代中国においても、少数民族の言語以外に、中国語とされていることばだけで何十とあるが、その中で、すべて漢字で書けるのは北京語と広東語の二つしかない。それ以外は、例えば上海語でも福建語でも客家(ハッカ)語でも、文献や標準語からの借用語以外のことばは、漢字では書き表せない。
ところで、文語の文章語と、方言の地方語とは、どれぐらい違うものだろうか。これがわかる資料はひじょうに少なく、始皇帝の統一以後、一千五百年以上もたった明代(十四〜十七世紀)の作とおぼしい『軒渠録(けんきょろく)』の記録くらいしか見あたらない。陳東原著『中国婦女生活史』からの引用によって、その一部を紹介しよう。
「一族の叔母さんの陳さんが、ちかごろ厳州(げんしゅう)(浙江(せっこう)省建徳(けんとく)県)に寓居していたが、息子たちはみな仕官のためにでかけていた。たまたま一族の甥の大●(だいそう)(●=王の右に宗)が厳州を訪問した。陳叔母さんは、そこで甥に代筆させて息子あての手紙を書かせることにし、口授(くじゅ)していった。
『孩児劣、●(●=女の右に爾)子又鬩鬩(音吸)霍霍地。且買一把小剪子来、要剪脚上骨。出(上声)児(音胖)胝(音支)児也。』
大●(●=王の右に宗)困って筆を下すことができなかった。叔母さんは笑っていった。
『もともとこの子は字を知らないんだよ』」
中国では、昔は女は漢字が書けなかった。そこでこの話の女は、男に頼んで手紙を書いてもらうのだが、漢字を知らないから文体も知らない。それで口語で話すとおりに口授したのだが、これを翻訳せよと言われた男は、さぞ難儀だったろう。
口授の文句は、いまの言語学者ならば、音声文字であるローマ字で書くところだが、『軒渠録』の著者はローマ字を知るわけがない。それで文章語の発音に似せてなんとか書くのだが、口授の文句の、括弧のなかの(音…)とか(…声)とかいうのは口語の発音で、文章語にはそれに当たる漢字がないのである。
ところで、この内容は日本語ではどういう意味か、といえば、それはわからない、としか言いようがない。中国の読書人にも意味がわからず、翻訳ができないのだから、まして日本人であるわれわれにわかるわけもない。
日清戦争に負けた清朝は、二千年を超える伝統のシステムを放棄して、日本式の近代化に切り替えたが、このとき、これまで起源の違ったことばどうしの間の仲介役であった文章語も廃棄して、日本語に置き換えた。そもそも漢文の文章語自体が、どの中国人にとっても外国語だったのだから、この切り替えは簡単だったのである。
やがて日本語の達人の魯迅(ろじん)が現れて、一九一八年、人肉食をテーマとした小説『狂人日記』を発表し、これがもとになって、日本文を一語一語翻訳した中国文が爆発的に流行することになった。これが、すなわち「中国語」の誕生であった。
しかし、先に言ったように、いまだに中国全土に通用する「中国語」は存在しない。「普通話」は、かつての漢文と同様、地方の中国人にとっては外国語にひとしい。つまり、われわれ日本人が考えるような、同じことばを話す十二億の中国人はいないのである。
ひとつの国民としての中国人は存在しないのだから、国民国家としての中国の歴史もない。政府によって「中国の歴史」として教えられるものは、じつは、ひとりひとりの中国人にとっては、何のかかわりもないものだ。だから、「歴史」とはなにかと問われれば、中共政府に教えられたとおりに、情熱を込めてオウム返しに答えることになるが、腹の中では、その場さえつじつまがあえばいいのだ、と思っている。中国人は本心では「どうせ歴史は政府の宣伝さ」と考えていて、まじめに向き合ってなんかいない。これが中国人にとっての歴史の真相である。
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