
▲戦友たちとの北支戦線での1枚(前列右端が僕)。英国人の血が流れているということで随分ぶん殴られたが、僕をかばってくれたり親切にしてくれた上官もいた。何より一緒に戦った戦友たちのことは一生忘れられない。戦友は僕にとって兄弟以上の存在だ。もっとも、同じ班の12〜13人のうち、生きて帰れたのは2、3人だけだったが… |
騎士道精神と廉恥心
日本人に徹して生きてきた、と言ったら少し大袈裟かもしれない。僕は大正五(一九一六)年、神戸で生まれた。育ちは横浜である。父は英国人で「ロンドン・タイムズ」の極東特派員をしていたアーサー・モンタギュー・ハリス。母は千葉県出身の平柳うら。最初は父の国籍に合わせて英国籍だったが、昭和八(一九三三)年、父が肺炎で急死したため、母とともに日本国籍に戻った。日本名は平柳秀夫。以来六十七年間、僕はずっと日本人として生きてきた。
父は生粋のロンドンっ子。非常な親日家で、勇敢、フェアなジャーナリストとして日英の交流の架け橋になっていた。躾には厳しい半面、子煩悩で、休日には僕を連れて出掛けるのを楽しみにしていた。母は活発で、優しく、僕をいつも大切にしてくれた。人間は独りでは生きられない。父からはキングス・イングリッシュと゛騎士道精神″を、母からは日本語と日本的価値観、恥を知るということを教えられたように思う。
父を亡くしたときは母一人、子一人。たちまち生活に困窮した。父のような立派な新聞記者になりたいと思っていた僕は、大学進学よりも現場で実際に揉まれた方がいい、とばかりに、たまたま記者募集をしていた米国資本のジャパン・アドバタイザー(のちジャパン・タイムズに吸収)という英字紙に応募、採用されて新聞記者としてのスタートを切った。十七歳のときである。ニューヨーク・タイムズ日本特派員も兼ねていた大記者、バートン・クレインに可愛がられ、苦労を重ねてバイ・ライン(署名記事)が許されるようになったときの喜びはいまだに忘れられない。やがて中堅記者としてこれから、というとき、第二次世界大戦が始まった(談)。
日本人として駆け抜けた人生

▲旺文社主催の学生コンクールの入選者を引率して、佐藤栄作首相を官邸に表敬訪問。佐藤さんが蔵相から首相をつとめた時代の8年間ほど、夫人の寛子さんの個人教授をつとめさせてもらったのも楽しい思い出の一つだ。また後年、ノルウェーのオスロで開かれたノーベル平和賞の授賞式で佐藤首相の英語でのスピーチが喝采を受けたときは、密かに相談を受けて様々お手伝いした僕も、我がことのように嬉しかった |
昭和十六年十二月八日朝、出社したら社内は騒然、異様な空気に包まれていた。先輩の外国人記者がみな憲兵隊に連行されていたので、僕が一面トップの見出しを考えた。いまもジャパン・タイムズ史に残る゛WAR IS ON″である。この日を境に僕の人生も激変した。日本国籍を持つ日本人だと言っても聞き入れられず、敵性外国人として横浜の収容所に八カ月近くも収容された。捕虜交換でイギリスに強制送還される直前、やっと日本人であることが確認され、母のもとに帰れたのも束の間、召集令状が来て、昭和十七年、僕は天皇陛下の兵士の一人になった。時代の重さが両肩にのしかかってくる思いだった。
そのとき初めて、僕は日本人・平柳秀夫を強く意識した。そして、母の国、僕に国籍を与えてくれた日本のために戦おうと決意し、終戦までの四年間、北支(中国河南省)の戦場で必死に戦った。敵前への突撃も、白兵戦も経験した。「恥ずかしい真似をして、ママが責められるようなことがあってはいけない」と懸命だった。同時にジャーナリストとして、しっかりこの戦争を見届けようと思った。戦争である以上、悲惨なことがあったのは確かだが、軍隊としての規律は厳しく守られ、戦後に言われるような日本軍による中国民間人の虐殺など、少なくとも僕は知らない。
昭和二十一年五月、兵長として復員。横浜のバラック住まいの母のもとにたどり着いたときは、わが人生で至福の瞬間だった。その後ジャパン・タイムズに復社、東京裁判の取材をしたのは運命の必然だったかもしれない。雑誌フォーチュン東京支局に移り、数年して旺文社の初代社長・赤尾好夫さんにスカウトされたことで英語講師としての新しい人生が始まった。それから数えてもすでに四十数年…、父母は東京の多磨墓地に眠っている。僕もまた、母の国であり、妻の国であり、僕の国でもある日本で、最後まで頑張るつもりである(談)。
(撮影・大西史朗)
|
|
ジェームズ・バーナード・ハリス(James Bernad Harris)=大正五年(一九一六年)神戸市生まれ。カトリック系のインターナショナル・スクール、セント・ジョゼフ・カレッジに学ぶ。昭和八年、ジャパン・アドバタイザー(のちジャパン・タイムズに吸収)に入社。新聞記者としてのスタートを切る。昭和十七年応召、中国戦線へ。二十一年復員。ジャパン・タイムズに復社。雑誌フォーチュン東京支局を経て、旺文社初代社長・赤尾好夫氏の招きで、英語講師としてラジオ番組を中心に活躍。平成十年、旺文社顧問を最後に退職。現在、英語検定協会の評議員。著書に『ぼくは日本兵だった』(旺文社)など。 |
|