
21世紀を迎え、日本は停滞している感が強い。打開する方途はあるか。私はあると思う。自らを知り、長所を徹底的に伸ばすことだ。そうすれば短所は自然に隠れる。他者のつくった枠組みの中で汲々としていてはいつまでたっても勝てはしない。私が〈高さと力〉に〈速攻コンビネーション〉で挑んだように、オリジナルの切り札を持つ必要がある。悲観することはない。負けてたまるかの気概をもって本音で物を考え、挑んでゆくかぎり、日本人はきっと世界に伍してゆける
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負け犬になるな!
私の母は全盲だった。本当に気丈な女性で、「他人様から憐れみを受けるような人生は送りたくない」と口癖のようにいいながら、必死になって生き抜いたひとだった。一人息子ということもあってか、私は比較的鷹揚に育てられ、学校の成績も小学生の頃は「アヒル(乙)」の行列が通信簿を埋めていた。学校から帰ると勉強もせず草野球に興じる毎日。そんな少年時代、母との間には決して忘れられない思い出がいくつもあった。
その一つ。小学三年だったか、今でいういじめにあって、よく家の前で待ち伏せをされた。私はそれが怖くて一週間ほど隣家の裏を抜けて帰っていたのだが、それが母の耳に入ったのだろう。
「お前は負け犬だ。このめくらの母が、めくらのくせにとか、女だてらにとか世間からいわれながらも、決して他人から同情や憐れみを受けない、バカにされないことを、人生の中で最も大切なことだと歯をくいしばって頑張っているのに、その一人息子が、成績が悪いとか、身体が小さいということだけでバカにされる。バカにされた本人が、『何を!』とくってかかるどころか、裏路地をコソコソと尻尾を巻いて逃げているのかと思うと情けなくて、口惜しくてしようがない…」
母は見えない目から涙をポロポロ流し、泣きながら私を説教した。勉強しないこと、成績が悪いことを叱られているのではない。自分のいじけた気持ち、困難に立ち向かう気力のなさを厳しく咎められているのだということが分かった。それは生きるということがどんなことかを、子供の私が初めて、おぼろげながらも感じ取ることができた瞬間でもあった。このとき、私という人間の核が形づくられたといってもよい。自分の信念のままに生きた母は、私にとって素晴らしい、かけがえのない教育者であったことを、私はいまも誇りに思っている。

10歳の頃、母ミツと。母は父康一と結婚する前、16歳の娘時代に失明した。バイブル販売で全国を行脚していた父とは恋愛結婚。父に万一のことがあっては母子が路頭に迷うからと、母は自ら陶器工場を設立、経営した。陶器といっても骨壷で、「人間の最後のおつとめをする有り難い仕事だよ」という母に、私も子供心に「なるほどなあ」と感心したのを今も覚えている。「男は語尾をはっきりしろ」というのも忘れ得ぬ母の教えだ |
何かを為す一生を
太平洋戦争のただ中、旧制中学二年の終わりから四年の中頃まで、私は勤労奉仕に明け暮れていた。終戦になって学校に戻ったとき最初に考えたことは、「さあ、これで勉強ができる」ではなく、「これで思いきり好きなスポーツがやれるぞ!」だった。雨天体操場は焼夷弾で屋根が半分くらい焼け落ち空が見えていた。荒涼とした廃墟だったが、若さが私に感傷に耽ることをさせなかった。倉庫の中に入ってゴソゴソ探しているうちに見つかったのが、一個のバレーボールだった。これがもしバスケットボールか、サッカーボールだったら、後年の“バレーの松平”はなかったかもしれない。
そのときから私のバレーボール人生は始まった。いろいろなエポックにぶつかり、素晴らしい人との出会いに恵まれたことで何とかここまでやって来られた。エポックごと、人との出会いごとに、私にはさらなる努力を積み重ねねばならないような“仕組み”が待っていた。
選手時代は国内タイトルのすべてを手中にしたが、昭和三十六年の欧州遠征で全日本男子は二十二連敗。「世界のクズ」と酷評されたのが私の指導者としてのスタートだった。銅メダル獲得もまったく評価されなかった東京五輪、銀メダルのメキシコを経て、ついにミュンヘンで金メダルを獲得。それは「負け犬になるな」という、当時すでに他界していた母の言葉に応えた瞬間でもあったろうか。
人生は何もしなくても一生、何かを為し遂げても一生だが、私はやはり何かを為すことが生きていることの証しだと思う。無論、人生には成らぬことのほうが多い。それでも無我夢中で何かに挑めば、俺はこれを為したのだと、死ぬ時に自分にいってきかせることのできる人生が送れるだろう。それはとても素晴らしいことではないか。

ミュンヘンに発つ前、東京・代々木の合宿所の風呂で。五輪メンバー勢揃いである。前列左から西本哲雄、嶋岡健治、私、トレーナーの斎藤勝、猫田勝敏、木村健治、中村祐造、後列左から大古誠司、佐藤哲夫、南将之、深尾吉英、森田淳悟、横田忠義、野口泰弘。本当に懐かしい、わが愛する選手たち。猫田に続き、“サムライ”南も平成12年、58歳の若さで逝った。奇しくもバレー界で金銀銅の三つのメダルを手にしたのはこの二人だけだ
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