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 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>



(103)
女優 村松英子 8月号


鳥取女子短期大学の学生たちと。昭和58年から平成8年頃まで英文科の教授(初めは客員で後に専任)として月一回の集中講義。鳥取に愛着が生まれた。その終わり頃から、一定期間、札幌の北海学園大学、次いで母校の慶応大学に特別講師として通った。――私の専攻は英国文学。どの大学でも学生は熱心で、成績が伸び、実に可愛い。大事に育てればすぐ反応する学生たち。私にも良い刺激になった(写真提供・読売新聞大阪本社)


父親っ子

 乳母に抱かれた昭和十三年生まれの赤ん坊の私の写真は、いつも上機嫌だ。九歳上の兄の後での女の子だったから、一族中から可愛がられた。加えて父親似なので村松の祖父母、伯父には溺愛され、三文以上安い孫娘だった。私の乳幼時の記憶の頁はどれも、明るく楽しい。

「元気に生まれてきたから」と、両親が四月生まれの出生を三月の早生まれに届けた。それで一年早く小学校に入学したので、短期間だが、戦前の教育を受けた。まもなく東京大空襲で学校は閉鎖。戦後再開した教育は百八十度の転換。当時の変改は極端から極端で、子ども心にも呆れた。制度などというものを信じなくなった由縁である。「英子、人間の価値はね、地位でも名でも富でもない。その人の心にあるのだよ」と父は私が幼い時から繰り返した。価値の混乱期は「人の心」を見る実体験の時期でもあった。

 私は父親っ子に育った。父が八十一歳で亡くなったのは二十二年前だが、私は「孤児になった」と泣き崩れた。「私も」「僕も」と母と兄が言ったのには驚いた。父は誰からも(外国人からも)「父親」と慕われた。東大医学部卒業後、ハーヴァードに留学した精神神経科医で(留学前から、昔の聖心英文科を出た母共々、英米人との交際が多かったが)、GHQに大そう敬意を表された。毅然として多くの病院を米軍接収から救い、父の許に相談に来るアメリカ人は、高官、判事、学者からコックさんまで居て、私は彼らに可愛がられた。――父の葬儀に「父と慕う人、私の知る日本最後の武士」を喪ったと弟子のアメリカ人教授が弔電をくれた。

 GHQが去った後も父は大忙しで、一高生だった兄が東大生となって家を離れ出すと、母が不安定になった。家は真っ暗で、私の幸せな子ども時代は終わった。


七五三の3歳の時。祖母、母、叔母、兄に付き添われて、当時住んでいた新大久保の(母の実家の敷地内に建てた)家から近い新宿の写真館に行った。その道中、叔母と兄に交代でオンブされたこと、写真館で「はい、お袖口を、こう握ってね」と“指導”されたことを、いまでも覚えている


人生と演劇

 ハタ目にはともかく、私の思春期は不幸だった。父は名古屋大学に呼ばれ、兄は家に居ず、私は不安定な母に過剰に干渉された。――兄は小さな妹に母を押しつけて逃げたことを、長い間後ろめたく思ったらしい――救いは、詩を書いて大人の詩誌(西条ふたばこ主宰)に認められたこと、英国の老婦人(イートン校校長の娘)から受けた英語の個人教授の時間、好きな先生のピアノのレッスン、等が楽しく忙しかったことだ。高校で勉強も忙しくなった頃、母も多少安定してきた。思えば、感情的に圧迫された思春期の影響が、私を演劇に向かわせたのだろう。

 九歳上で、婚約、結婚を急がせたまた従兄の主人は、私に同情的で、結婚前から私に演劇や大学院での勉強を励ましてくれた。結婚披露宴で「解放感」に浸った私が初めてフルコースの食事を平らげたことは(病後の仲人夫人も同様で)、仲人と主人の間で語り草になった。

 三島由紀夫先生との出逢いと親交は、私の演劇生活と人生までを決定づけた。「今まで俳優を育てたことはないが、戯曲を通して英子を育てたい」と言われて六年間。計算しつつ次々と大役を与えられ、そうしてあの死。――その直前に、先生はしみじみと言われた。

「英子は女の子だから幸せにならなくちゃいけないよ」

「女の幸せって?」

「それは母親になることだよ」

――後にやっと体調が整って母親になった時、改めて思い出した言葉である。

「品位(気品)を大事にしておくれ。それは謙虚さから滲み出てくるものなのだよ」

 三島先生から父と同じ言葉を言われた時、私は感動した。御縁を思った。

 多くの人を喪った。主人も兄も、励まし続けて下さった戸板康二氏も三島瑶子夫人も……。今も支えて下さる方々のお蔭で演劇の道を歩く私の、人生の頁には、成長してきた娘と息子が手を添えている。


昭和40年。以後の演劇上の恩師、三島由紀夫先生と。再びの岐路の後――三島作品を稽古中の文学座が「思想的理由」により上演停止。そのため(2度目の)分裂が起こる。お世話になった文学座を、大先輩たちの引き留める手を振り切り、泣く泣く、後先も考えずに退団した後――「僕は俳優を育てたことはないが、戯曲を通してきみを育てたい」と先生に言われ、紆余曲折を経てお傍に(写真提供・新潮社)


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 「正論」平成15年8月号   私の写真館



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