昭和六十年八月十二日、羽田発大阪行きの日本航空123便が長野・群馬県境の御巣鷹山に墜落し、乗員・乗客合わせて五百二十四人のうち、生存者はわずか四人という大惨事となった。
犠牲者の一人、歌手の坂本九さんは、ヒット曲を飛ばし、テレビの司会やクイズ番組、映画などで人気絶頂期にあった。この日は市議選に立候補した知人の選挙応援に向かう途中だった。まだ四十三歳であった。
テレビは毎日のように事故現場や遺族の沈痛な表情を映していたが、やはり人気スターの遺族には注目が集まり、女優で夫人の柏木由紀子さんや幼い娘たちの気丈な姿を覚えている人は少なくないはずだ。
あれから十八年の歳月が過ぎ、当時十一歳だった長女の大島花子さん、八歳だった次女の舞坂ゆき子さんは悲しみを乗り越え、現在共に歌手、女優として活躍している。今年の三月二十七日には東京都北区の北とぴあで、父・坂本九の遺した名曲を姉妹で歌うコンサートを行い、幅広い年齢層のファンが詰めかけた。
一家の大黒柱の死。少女だった二人が現在の活躍に至るまで、どのようなドラマがあったのか。家族という枠組みが軽んじられる昨今だが、二人が思う父親とは−−。
いつも一緒にいた記憶
−−家庭での大島九さんはどんな父親でしたか。
大島 父は休日も仕事で家を空けることが多く、帰宅時間も私たちが寝てからということがしょっちゅうでした。あの事故が起きたとき、私も妹もまだ小学生でした。
父は私たちと過ごす時間が少ないことを気にかけ、夜中帰宅すると置き手紙を残してくれたり、交換日記をやりとりした時期もありました。お互いに歌を作って贈り合ったり、時間がある時は目一杯家族を楽しませてくれました。
ある時は、アリの巣を見つけて私たちを呼び、それに物語をつけて一時間くらい巣の前で遊んだこともありました。時々仕事のスタッフの方たちを交えることもあり、いつも笑いの絶えない賑やかな家庭環境で育ったと思います。
舞坂 優しくて温かい父でした。私たちを子ども扱いするのではなく、一人の人間として真剣に接してくれました。どんなに些細な悩みにも耳を傾けてくれましたし、いつも母と姉と私の三人で父を取り合っていた記憶があります。
大島 でも、嘘をつかない、わがままを言わない、行儀を良くするということに関しては厳しかったですね。
舞坂 叱る時でも、どこが悪かったのか、いつでもきちんと納得できるように話してくれました。
死に対する恐怖に怯えた日々
−−事故当日は……。
舞坂 夏休みだったので、皆で朝食をとっていました。その後、父は私に向かって、「雲を見てごらん。流れが速いでしょう。今日は風が強い。飛行機に乗りたくないなぁ」と言ったのです。いまでもその言葉がエコーのように耳について離れません。
大島 私は今でも夏が来るたびに思い出します。トルコ桔梗の香りがしたときや、ふとした瞬間に切なくなりますね。
あの日はいつも通りの朝でした。父と他愛のない会話をして、「いってらっしゃい」と見送りました。その時は感じませんでしたが、いまになって思えば何となく父が恋しい、物悲しい一日でした。
飛行機に乗る前に、父は仕事場から渋谷に向かい、買い物をしていたようなのですが、偶然私たちも渋谷で買い物をしていました。しかし結局会えず、そのまま父は発ってしまったので、がっかりしたのを覚えています。
−−墜落した飛行機に乗っているかもしれないと聞いたときは。
大島 信じられませんでした。「なんちゃって」と言って帰って来るのではないかと思っていました。しかし、家に泣きながら入ってくる方たちもいて、何だかお葬式のような雰囲気になってきてしまい、そのギャップを自分のなかでどう処理してよいのか戸惑いを隠せませんでした。
部屋の窓のところにまでマスコミのカメラが追ってきて怖かったのを覚えています。悲しくて泣いたというよりも、カメラが怖くて泣いていた気がします。それがきっかけで、以後何年かはカメラのフラッシュに怯えていた時期もありました。
舞坂 いろいろな人が家に来て、出入りが激しくなったので、とても不安になりました。大変なことが起きたということは分かったのですが、どうしても信じたくなくて、あえて普通に振る舞っていました。
大島 父の遺体がなかなか確認できず、母と妹と群馬県の事故現場近くの遺体収容先に行き、連絡を待ちました。その後、妹と私は軽井沢に旅行中だった知人の元へ預けられていました。
−−五日後にようやく遺体が確認されましたね。
大島 そのときの母は大変落ち込み、疲れきっていたので、私が何とかしなくては……と、できるだけ冷静に対応していました。葬儀のために自宅に戻りましたが、お坊さんが読経を始めても、何だか他人事のように思えてなりませんでした。葬儀のときは私だけ泣いていなかったような気がします。
舞坂 まだ小さかったので身近の死は実感できませんでしたが、ショックは大きく、ただ泣きじゃくっていました。
大島 母は「嘘みたいね」と呟いていました。現実で起こっている状況に合わせている自分と、それを素直に受け入れられない自分がいましたが、それは母も同じだったようです。
−−突然死の悲しみを乗り越えるのは、本当に大変だったと思います。
大島 日常生活ではできるだけ何も変わらないようにしようと、誰が言い出すのでもなく、それが三人の暗黙の了解だった気がします。そうしないとやっていけなかったのかもしれません。
人間とは何とあっけなく死んでしまうものなんだろうという意識が毎日のように強くなり、心配でたまらなかった時期がありました。「大事なものを失う恐怖」が常に付きまとうのです。母の帰りが少しでも遅くなったり、救急車のサイレンが聞こえると、身体の震えが止まらなくなりました。学校でも保健室で寝込んだり、自分で根拠もない病気の疑いをかけ、勝手に死期を決めつけることもしばしばでした。
やはり、子どもであっても精神的なダメージは相当あったのでしょうね。かと言って、私たちは生きていかなくてはいけなかったので、いま思えば痛々しいのですが、普通に普通に暮らそうとしていたと思います。未だにこの衝撃を、どの程度受け入れられているかと問われれば、自分でもよく分からない部分があります。どこへ行ってもその時のことを聞かれ、慣れてしまっているとも言えるし、あまり覚えていないこともあるし、普段は忘れていて、テレビで当時の映像を見て思い出すところもあるし……。
舞坂 自分でもよく乗り切ったと思います。当時の様子を書いた日記が出てきたのですが、読んでみると、ショックで落ち込んでいると思えない程、すごく明るいんです。多分寂しさを感じないように、自分なりに努力していたのだと思います。
大島 それでも夜一人になるとやはり泣いていました。周りもつらかったでしょうし、大変だったと思いますが、本当に支えていただきました。特に学校では私たちを特別扱いしないように、それまでと全く変わらずに振る舞ってくれました。学校ではそのことが原因で嫌な思いをしたことは一度もありませんでした。
−−お母さんはどのような様子でしたか。
大島 それまでは子どもの目から見ても、父の後ろに隠れ、父がいないと何も決められなかった母という印象でしたが、見事にたくましくなりました。
毎年、年末はハワイで過ごすのが恒例でした。父が亡くなった年は、そんなことは考えられませんでした。けれども翌年の年末、家族三人で飛行機に乗ってハワイに行ったのです。
これは母が言い出したことで、本当に驚きました。夫が亡くなっても、子どもたちの環境は大きく変わってはいけないという親としての責任感から出た提案だったのでしょう。
−−飛行機に対する恐怖感は。
大島 もちろんありました。飛行機に乗ると、涙と震えが止まらず、客室乗務員の方たちが事情を理解して、気分を落ち着かせてくれました。
しかしハワイでの休暇はとても楽しいものでした。時々ふと四人で過ごした時を思い出して寂しくもなりました。しかし父の友人たちが現地でいろいろと気を使って下さったり、父の歌「上を向いて歩こう」(海外での呼び名は「スキヤキ」)をラジオで耳にしたりと、抱きつづけていた不安から少し解放された旅でした。
| 「正論」平成15年9月号 |
インタビュー
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