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 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>


【新連載 創刊30周年記念企画】 第一級史料全訳に本誌記者が挑む
マッカーサー元帥、宣誓をして語り始める
マッカーサー米議会証言録(1)
一九五一年五月三日〜五日、米上院軍事・外交合同委員会聴聞会より



訳・解説/本誌 牛田久美

[解説]この聴聞会は、一九五一(昭和二十六)年五月、トルーマン米大統領によって一切の職務を解任されたGHQ(連合国軍総司令部)最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥が日本を去り、米国に帰国したあと、上院が召喚し非公開で開いたものである。

 朝鮮戦争への対応をめぐり、「自分は戦争を嫌悪しているが、始まった以上、勝利以外ない」と徹底した戦いを主張するマッカーサーと、全面戦争への拡大を懸念したトルーマンが激しく対立。マッカーサーは帰国直後の議会演説で、全面戦争も辞さない自分の極東戦略は統合参謀本部も承認したと述べたため、ワシントンがどこまで関与したのか「米国史上に残る悲劇的な大論争」に発展した。

 国を二分した論争は、米紙ニューヨーク・タイムズが連日、公開された速記録全文(ただし検閲を受けていた)を掲載するなど、全米の注目を集めた。

「米国が独り戦うことになっても、朝鮮で中国に最後通牒を渡せ」(四日付)▽「主な敵はロシアではない。共産主義だ」(五日付)▽「赤(共産主義)は朝鮮で打ち負かすべきだ。さもなくば成功に乗じてソ連は米国を突く」(六日付)。いずれも一面トップの見出し、マッカーサーの言葉である。

 冷戦が幕開けた時期であり、フランスのル・モンド紙も一面で扱い、フィガロ紙も特集を組むなど世界の耳目を集めた。日本でも、つい一カ月前まで事実上最高の政治権力者だったマッカーサーの政治的生命の帰趨(きすう)に関心を寄せ、各紙がやはり一面トップで報じた。

 聴聞会の正式な題は「極東の軍事情勢とマッカーサーの解任」(Inquiry Into the Military Situation in the Far East and the Facts Surrounding the Relief of General of the Army Douglas MacArthur from his Assignments in that Area)である。米国立公文書館の上院文書RG46に全文がある。

 五月から六月にかけ、マーシャル国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長、コリンズ陸軍参謀総長ら三軍の長、アチソン国務長官らの計十三人から、数千ページの証言を得た。

 マッカーサーは一番目の証人だった。

 しかし「国民の関心はマッカーサーが証言台を去ると急速にしぼんだ。上院は大量の複写をどうしたらよいか分からないまま休会に入った」(マイケル・シャラー・アリゾナ州立大教授)というほど、注目を集めたのはこの元帥の証言だった。

 争点は、前年の一九五〇(昭和二十五)年に勃発した朝鮮戦争だった。

 六月二十五日未明、北朝鮮軍が三十八度線を南下して侵攻。二十七日、トルーマンは「武力攻撃を撃退し平和と安全を回復する」との国連安保理決議を受け、従来の朝鮮軍事不介入の政策を放棄、日本にいたマッカーサーを急派した。七月七日には国連軍が構成された。

 八月初め、米韓両軍は釜山を維持するだけだったが、北側の補給線が伸びきった九月末、マッカーサー指揮で仁川(インチョン)上陸作戦を敢行、ソウルを奪回した。十月、米軍は国連決議に基づき北上開始。しかし十一月末、中国義勇軍が全面介入すると米韓軍は三十八度線以南に後退、ソウルは再び共産側のものとなった。

 以後、戦況は二転三転し、解任はそのさなかの四月だった。

 マッカーサーは戦略上、主に三点を主張していた。「中国の海上封鎖」「満州(現在の中国東北部)への爆撃」「蒋介石総統の国民党軍投入」である。しかしトルーマンは受け入れず、四月十一日未明の特別記者会見で、国連軍最高司令官、米極東軍総司令官、同極東陸軍司令官、さらにGHQ最高司令官などを務めるマッカーサーの職務解任を発表した。

 解任に至った三つの重大な相違点は、そのまま聴聞会の争点となった。

 米国内では、怒った市民がトルーマン人形を燃やし、十二州がマッカーサー支持や大統領非難を決議し、シカゴ・トリビューン紙は大統領不適格者の声明を出した。ギャラップ世論調査では国民の三分の二が解任に反対したという。

 上院共和党も疑義を示し、解任についての調査を要求。聴聞会はこれを受け、世界注視のなか開かれた。

 解任はトルーマンにとっても政治生命をかけた出来事で、「途方もない爆発」だが「行動しなければならなかった」と日記に残している。

 トルーマンは当時、イギリスやフランスなど西欧の同盟諸国からの抗議にも悩んでいた。イギリス、フランスは、朝鮮戦争拡大がNATO(北大西洋条約機構)を危うくし、西欧をソ連の攻撃にさらすと主張した。

 この差は、北朝鮮の最前線で中国軍に包囲された指揮官と、太平洋を隔てた政治家の温度差でもあった。マッカーサーは局地戦争の司令官として、速やかに勝利を得るためには全面戦争の危険をも辞せずとしたが、トルーマンは、すべての政治的要素を考慮しようとした。

 この問題は同時に、ときの大統領は、戦域司令官の手足をどこまで縛ることができるか、民主主義国家における文民統制の問題も提示した。トルーマンの政府と民主党側は「政府こそ軍事を超越した最高の機関だ」と主張、マッカーサーは「有事には、政治的な考慮から軍事を縛るべきでない」と述べ、その差は証言でより明らかとなっている。

 聴聞会当時、マッカーサーは七十一歳。“第二次大戦最後の偉大な帰還兵”として国民の人気と支持を集め、翌年の大統領選有力候補の一人として下馬評まであがっていた。

 帰国後の四月十九日、マッカーサーは議会へ招かれ、演説をした。五十二年の軍務を振り返り、最後に有名なバラードを引用して締めくくった。

「『老兵は決して死なず。ただ消え去るのみ』。このバラードの老兵のように、私は軍歴を閉じ、消え去るのみである。神が私に与えた才能にしたがって自己の任務を果たさんと試みた一人の老兵として。さようなら」

 三十分以上にわたるこの演説の終わりには、すべての民主党議員が目に涙を浮かべ、共和党議員が席をしとどに濡らし、何百万というラジオ聴取者を魅惑したという。

 そんな中の聴聞会で、共和党側はトルーマン外交政策全般を批判。民主党側は弁護士スタッフの指導で質問リストを綿密に作成し、マッカーサーに十分に語らせて、矛盾点を突く手法をとった。

 聴聞会の議題は、朝鮮戦争にとどまらず、米国の対外戦略まで及んだ。

 中国を攻撃し海上封鎖した場合、ソ連と中国はどう対応すると考えたのか。どの程度まで戦争拡大を提案したのか。同盟国や国連の支持がなくても西欧を防衛できると考えるのか。敵が報復行為に出た場合、米軍は、日本を防衛できるのか。台湾を重視するのはなぜか。そして、勝利の定義とは−−。

 日本については、冷戦外交の一環で西欧とともに重視され、三日間を通じてたびたび話題となった。特に、三日目の後半で国内の諸策にふれている。

 ソ連の北海道侵攻の可能性、憲法に戦争放棄の条項を含めた経緯、米師団方式にして地上軍への転化を容易とした警察予備隊、新しい諸法規は占領後に日本古来の文明に合うよう修正されるだろうこと、国民の生活様式の変化など、多岐にわたった。

 対日講和条約調印を八月にひかえ(実際は九月にソ連、チェコスロバキア、ポーランドを除く四十八カ国がサンフランシスコで調印)、条約の米国草案が三月末に関係国に配布された直後の解任劇であり、日本国内の事情には多くの議員が関心が寄せた。

 日本が戦争に突入したのは自らの安全保障のためだったという内容は、一日目の証言である。朝鮮戦争での対中封鎖と、第二次世界大戦時の対日包囲を比較した質問に、マッカーサーが答えた。

 今年は、五三年七月の休戦条約調印からちょうど五十年。当時に端を発する国際状況は、先ごろ六カ国協議が開かれたが、なお影響を色濃く残している。

 聴聞会は非公開で行われ、国務、国防両省の安全保障担当官が速記禄の機密を削除したあと、ただちに新聞記者に公開された。

 完全な記録は二十二年後の一九七三年に機密解除後、フルブライト上院議員によって公表された。訳出にあたって、その機密解除部分は全て盛り込んだ。その際、何を公表すると差し支えがあると当局が判断したのか分かるように、機密解除部分は【 】で示した。

 米ソの軍事水準に関する証言もあれば、米国の対外戦略全般に関わる機微なやりとりもある。この聴聞会全体の研究者として知られるジョン・ウイルツは、検閲前の史料と後の史料を比較して、マッカーサーの主張を突き崩そうとした政府側の機密が多く削除された点を挙げ、「検閲はマッカーサー側を利した」と述べている。

 いったん削除され、上院の強い主張で追加公開された証言もあった。その中には沖縄が攻撃された場合に具体的に言及するなど、日本にとっての新事実も含まれる。

 地図、資料写真は編集部で添えた。( )は訳者の注である。小見出しは上院文書にならって一部補った(例「統合参謀本部が策定した緊急対応計画」。原文小見出しは「統合参謀本部の案」)。

 言いかけてやめた言葉も再現した。

 午前十時半、米ワシントン市中央部の上院幹事室。議長はラッセル上院議員(民主党、ジョージア州、五十四歳)である。

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 【略歴】ダグラス・A・マッカーサー 一八八〇(明治十三)年一月生まれ。陸軍軍人の家庭で育ち、ウエストポイント陸軍士官学校在学中、平均九八・一四点で同校史上空前の成績を残し、一九〇三年首席で卒業した。父がフィリピン、日本で勤務しアジアに親しみ、初任地にフィリピンを選び東京の米国大使館武官副官を務めた。極東の事情と東洋人の心理に詳しい軍人として要職を歴任、三〇(昭和五)年陸軍大将、米国史上最も若い陸軍参謀長。三七年いったん退役したが四一年現役復帰、極東陸軍司令官として先の大戦に参加。フィリピンで敗れオーストラリアへ逃れた際の「I shall return」(必ずや戻る)が知られる。四四年元帥。四五年八月三十日、終戦で日本に進駐し九月に昭和天皇と会見、対日占領政策を遂行した。朝鮮戦争の継続と拡大を主張し、トルーマン大統領と対立して五一年解任された。六四(昭和三十九)年四月、八十四歳で死去した。

 「正論」平成15年11月号   論文



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