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 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>




日本を第二の故郷と呼ぶ台湾少年工への讃歌(1)


高座日台交流の会会長・野口 毅
 いま我が国は台湾との間に国交はない。しかし台湾の人たちとの交流は続いている。この流れの中にあって、両国のいわゆる「高座会」では、政治、経済的あるいは学問的なことではなく、多分に義理、人情に類するものであるが、お互い心の結びつきを大切にして来た。そしてこれからも両国を結ぶ親善の一翼を担って行こうと励まし合っている。

一、高座海軍工廠と台湾少年工

 高座、というのは今も神奈川県にある土地の名である。戦時中この高座郡に高座海軍工廠があった。三十万坪の用地に一万人を超える工員を擁し、B29迎撃の戦闘機、雷電を生産していた。

 工員のうち二千人は日本の熟練工であったが、その主力となっていたのは、八千四百人の台湾少年工である。当時の国民学校高等科を修了し、今で言えば中学三年生、十五歳前後の優れた少年たちであった。高座海軍工廠において学習と実習を併行して行い、半読半工と言われていたが、一定の年限を経て中学校卒業の資格並びに海軍技手の受験資格を得るという道が開かれていた。

 海軍の募集に応じ、学力優秀なること、心身ともに強健であること、両親の承諾を得ることなどの選抜試験に合格し、みんな向学心に燃え希望を抱いて来日していたのである。

二、学習と実習

 昭和十八年四月、工廠に採用が決まった少年たちは台北から南下する軍用列車により、高雄郊外の海軍基地に集結した。

 日の丸の旗と多くの在校生徒に見送られ、晴れがましい気持ちであったそうである。基地には工廠から出迎えが来ており、その引率のもとに高雄港で乗船した。その第一船、さんとす丸には八百人が乗り組み、折から南方の軍需物資を満載した数隻の軍用船と船団を組み、駆逐艦が護衛して太平洋を北上した。

 乗船して直ぐに救命胴衣が支給され、緊張したとのことである。また全員が船酔いに苦しみ、遠州灘で富士山を見て万歳を叫んだとき、やっと治ったと話している。こうして台湾の少年たちは十隻あまりの輸送船により、相次いで来日したのである。

 高座海軍工廠では、大和の地に建築した一棟二百人の寄宿舎四十棟に収容し、この少年たちの、日本での生活が始まった。寄宿舎から工廠まで二粁の道を、少年たちは軍歌を歌いながら通勤した。まるで朝には潮が満ち、夕方にはそれが引いて行くようであったと語り草になっている。

 高座海軍工廠が正式に開廠したのは、昭和十九年四月である。それまで一年間あまり、台湾の少年たちは工員養成所で勉強し、工場で飛行機の生産技術を習得した。今もその時間割と教科書が残っている。そのころ、敵国語として中学校や女学校で取り止めになっていた英語の授業もあった。

三、着任

 昭和二十年四月、この高座海軍工廠に着任した。私の任務は飛行機を生産するための非鉄部品、それはプロペラ、タイヤなどの調達である。

 工廠ではどこを見ても、どこに行っても台湾の少年たちばかりがいた。いつも賑やかで、すずめ部隊と呼ばれていた。私にとっては弟くらいの、この少年たちと一緒に仕事をする場はなく、また日常生活の中でも話をする機会は殆どなかったが、いつも気にかかっていた。

 私どもの士官宿舎は小田急沿線、南林間駅の近くに用意されており、待遇もよかったし通勤もバスの送迎があった。

 私は意を決して上司にことわり、少年たちの寄宿舎の一室に移り住むことにした。舎監がいたし、私に監督などの責任があった訳ではない。部屋の扉は昼も夜も、起きている時も寝ているときも開けていたが、そのうち数人連れではいって来るようになった。みんな礼儀正しく、頭もよく、家族や故郷のことなど話してくれた。それに、来日して既に二年間の経験を積み、工廠のことや、作業のこと、生活のことなど何でも知っていた。

 このようにして終戦の時まで少年たちと起居を共にし、工廠にも軍歌を歌いながら通勤した。

 生産用の機材の調達は思うにまかせず輸送も寸断されており、軍需省と連絡を取り各地の軍需工場をかけ巡るようにしながら、やっと明日の一機に間に合わせるような状態が続いた。

 浜松にプロペラを受領に行ったとき深夜に艦砲射撃を受けた。もうこの頃には制空だけではなく、制海権も既に我が国のものではなかったと思う。このときは、工廠に急ぎ電話連絡するため、天竜川の鉄橋を歩いて磐田の村役場まで行った。真夏の暑い日、空には敵機が飛んでいた。

四、百二十八機

 高座海軍工廠は第一から第五工場まで流れ作業を取り入れ、当時としては我が国で最大、最新の飛行機生産工場と言われていた。工場の鉄傘は終戦後に払い下げられて蔵前の国技館になったとのことである。

 飛行機が完成すると軍艦マーチが鳴り、みんな表に飛び出し帽子を振って見送った。翼をたたみ滑走して隣接する厚木基地に納入した。海軍第三〇二航空隊に編入され、多大の戦果を挙げたと記録されている。

 終戦の時まで、高座海軍工廠で生産された雷電は百二十八機である。みんな必死であった。当時の厳しい状勢の中で台湾の少年工たちは実によくやったと思う。

五、終戦を迎えて

 こうして昭和二十年八月、無我夢中のうちに終戦を迎えた。この台湾の少年たちは、その日から異国の人となり、いきなり異境の地に取り残された格好となって混乱した。しかし、さすが心身ともに優れた少年たちは、このような事態に直面してその真価を発揮した。時を経ずして秩序をとりもどし、自ら自治会を組織して生活を軌道にのせたのである。

 私は九月に予備役編入となって故郷の福岡に帰り、台湾の少年たちは翌年の一月に、整然として帰国したことを聞いた。

 しかし、少年たちが帰国した故郷の台湾は決して安住の地ではなかった。大陸から渡来した中国国民党の官吏と軍隊により、日本色を払拭して支配しようという露骨な意図のもとで、言語に絶する圧政に苦しんだ。日本語は話すことすら禁ぜられ、日本に協力していたと白眼視されて就職も出来ず、これまでに歩いて来た苦難の道のりは生やさしいものではなかったと思う。

六、里帰り

 それから五十年の歳月が過ぎた。

 平成五年の春、高座海軍工廠にいた台湾の人たちが大挙して来日するとの知らせがあり、その先遣隊と会うことになった。私は何を言われてもじっと聞くようにしなければと、その覚悟を決めて出かけたが、それは全く当てがはずれた。非難めいたことや恨みがましいことは一言もなく、「工廠や寄宿舎があった大和の地に里帰りしたい」というものであった。

 そして、その日が来た。平成五年六月九日、それは皇太子殿下と雅子さまのご成婚の日である。新聞もテレビも、そのニュースに溢れていたが、この日、神奈川県の大和市では台湾から来日した一千人を超える元少年工の人たちを迎え、歓迎の大会が開かれていたのである。

七、再会

 私の手許に日本名と台湾名、それに台湾の住所を記した数人の名簿がある。それが何時書かれたものであるか記憶にないが、きっと身近にいた人たちに違いない。この歓迎大会のとき、これを何枚かコピーして聞いてまわったが、探し当てることは出来なかった。

 それから数か月経ったころ、台南から台湾名の分厚い手紙がきた。「私たちのことを探していると聞きましたが、それはあの時の野口少尉のことでしょうか」こんな書き出しで、台湾に帰国してからのことが、数枚の便箋にいっぱい書いてあった。そして台北からも同じような手紙がきた。

 私は五十年前のことを知っている者が台湾にいると知って、もう居ても立ってもおれず、交通公社で台湾ツアーの申し込みをした。そして「この日の六時ごろ、このホテルのロビーで会うことが出来ないだろうか」と出状した。

 その返事が来ないうちに出発の日になり、羽田から台湾に向った。台北から高雄を経由し、四時ごろ台南大飯店に着いた。ツアーの人たちとホテルに入ったとき、大きな声で「野口少尉」と呼ばれた。「野口少尉ではありませんか」と言いながら近づいてきた。「あ、林さんか」手を伝って熱いものが流れこみ、血が逆流して胸に溢れた。林さんは眼にいっぱい涙をためて、私も言葉が出ないのに、ただ涙だけが出てきた。

「立派になったね」。はじめての言葉にしては、えらく気のきかないことを言ってしまったが、きちんとネクタイをして立派な紳士である。思えば林さんも今では六十五歳、既に功成り名遂げた人である。今日は昼からずっとここで待っていたとのことであった。それからは堰を切った流れのように、次から次へと帰国してからのことを話してくれた。二二八事件のときには、昼間さとうきび倉庫に隠れ、夜は屋根で寝たということである。

 台北でも北投のホテルで、手紙の黄さんに会い、奥さんにも紹介してもらった。

 


 「正論」平成15年12月号   論文



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