お元気ですか。
春爛漫の、一年中でいちばん心が浮き立つ季節になりました。
春眠暁を覚えず、といいます。広辞苑をひらきますと、「春の夜は寝心地がよいので、夜明けになってもなかなか目が覚めない」とあります。中年、熟年になりますと、春になると逆に早く目が覚めてしまう、という人が多いのではないでしょうか。私もその一人ですが、朝、たっぷり時間があるというのはなかなかいいものです。
だいたいは新聞を読んでいます。このシーズンになりますと、冬の朝ならとて
も読めなかった欄まで目を通せます。三月一日、わがグループの日本工業新聞社から発刊された総合経済紙「フジサンケイ ビジネスアイ」も丹念に読めるのは、まさに“春眠暁を覚える”からにほかなりません。
若い世代がだんだん新聞を読まなくなって、新聞社に勤めている者としては危機感を募らせています。たしかに新聞に目を通さなくとも、日々の仕事に支障はないかもしれません。でも、新聞は昔もいまも情報の宝庫です。ベタ記事に目が釘づけになることもあります。情報のストックの差というのは、必ずどこかで表われるものです。充実した生き方を求めるなら新聞は欠かせないと思います。
訃報記事も重要な情報です。とはいえ、親しくしてきた人の訃報は寂しさもひと
しおです。先月は、三月十四日に亡くなった創価学会の野崎勲副会長(享年六十一歳)と十九日に亡くなった観世流シテ方能楽師の橋岡久馬師(享年八十歳)の訃報記事にしんみりとし、二度、三度と読み返しては生前の懐かしい場面を思い出しました。
お二人ともその日のうちに連絡があって他界されたことは知っていたのですが、
日を置いて新聞紙上で記事と写真に接して一層、残念だなあ、という思いが強まってきました。朝日新聞は訃報記事の見出しとして前者に「創価学会の論客」、後者に「観世流の『鬼才』」とつけていました。まさに、その通りの論客であり、鬼才だったと思います。野崎勲副会長と橋岡久馬師は、これまで接してきた著名人のなかで私にとっては異色の人といってよい存在で、それだけに得がたい人を失った寂寥感はなかなか消えません。
野崎さんに初めてお会いしたのは平成六年一月でした。面識もツテもなにもな
かったのですが、創価学会の実力者だという野崎さんにインタビューしてみようと、ふと思い立ったのです。細川政権の頃で小沢一郎さんが権勢を誇っていました。公明党も与党で、野崎さんは永田町では“学会の政治部長”といわれていた頃です。こちらは学会・公明党には批判的だったので断られるかな、と思っていましたら、受けるというのです。
「宗教法人の優遇税制、日顕上人の醜聞報道等を質す」と題したインタビュー記事は「正論」平成六年三月号に掲載されました。まえがきと一問一答の一部を紹介しましょう。
《東京都新宿区信濃町三二番地。JR中央線の信濃町から歩いて二、三分のと
ころに創価学会の本部がある。その“奥の院”の、通された応接室にはアウグス・イスター作「湖の朝」、牛島憲之作「漁港」、東山魁夷の風景画が飾られている。
野崎氏は昭和十七年(一九四二年)九月、大阪府で生まれた。同四十年、京大
経済学部を出て、聖教新聞社に入社。創価学会総務、総合青年部長を経て、同五十八年、副会長に就任した。池田大作名誉会長の知恵袋である》
――――――――――略――――――――――――
――いま永田町界隈で“創価学会の政治部長”と囁かれている人がいるようですが、どういう立場の人ですか。
野崎 学会にはそういう“政治部長”などという人はいません。
――その“政治部長”なる人が小沢(一郎)事務所にしょっちゅう出入りしている
という話が伝わっていますが。
野崎 そういうことは全くありません。本当によくわからない話です。
――野崎さんご自身、小沢事務所へ行きましたか。
野崎 一切、行ったことはありません。
――小沢さんには会ったことがありますか。
野崎 ぜんぜんありません。いつもテレビで見ていますよ。私もなければ、名誉会長も一度もありません。
――ほう、池田さんも一度もないですか。でも池田さんが政治大好き人間なことは確かですよね。
野崎 いやいや、名誉会長は政治家は嫌いです。なぜかといえば、利用されるからです。
――違いますよ。
野崎 一度も名誉会長に会われていないのによく断定できますね(笑い)。違うというのは大島編集長の独断であって、私からはっきり申し上げますと、名誉会長は政治家は大嫌いです。
――――――――――略――――――――――――
このようないくぶん喧嘩ごしのやりとりが続き、さいごまで議論は交わること
もなく終るのですが、私は野崎さんに理論家としての力量もさることながら誠実な人柄に好感をもちました。ずいぶん、ぶしつけな質問をしたのですが、正面からがっちりとうけとめて、いやな顔ひとつ見せませんでした。この人は評判通り、ただものではないな、と思いました。
これをきっかけにして意見交換の場をもつようになりました。正直にいって学
会にいくばくかのアレルギーがありました。しかし、学会の権化のような野崎さんになんの違和感を抱かなかったのは自分でも不思議でした。
公明党に強い影響力をもつ野崎さんでしたが、いわゆる政界の極秘情報を口にす
ることはありませんでした。もちろん、その立場からいって政界のあらゆる事情に精通していたと思われます。それをなんとかして聞き出し、企画を立てる際の参考にするのが私の仕事ですが、たやすく乗ってくるような人ではありませんでした。そのうちに情報をとろう、といったことは頭から薄れていきました。
それでもただ一つ、承諾してくれたことがあります。それは「いずれ時間ができたら」という前提ではありますが、学会と共産党の「創共協定」のまだ活字になっていない話を、宮本顕治論を交えて書くということでした。野崎さんは自らその中心となった「創共協定」交渉の過程で宮本顕治という共産党のドンを直接的に、あるいは間接的につぶさに知ったはずです。それは、政治評論家などの宮本顕治論にはない切り口が予想され、編集者にとって魅力ある企画でした。
ただ、学会の重鎮である野崎さんは、執筆を約束した年から何年経っても超多忙
の日々に変わりがありません。執筆する時間などとてもとれないのです。それを承知で昨年秋、野崎さんに電話し、「そろそろ、いかがですか」と水を向けてみました。「ええ、やりますよ」と野崎さんは元気がよかったのですが、その頃、すでに病魔はしのびよっていたのでした。
宮本顕治論はあきらめるとしても、これからはもう論客と酒を酌み交わしながら。
人間国宝の能楽師、橋岡久馬師に初めてお会いしたのは平成九年でした。お通
夜のとき、喪主の長男、九世橋岡久太郎師にお悔やみを申し上げると、「これもご縁でございます」という言葉が返ってきましたが、縁というものを私も式場に来る車中で思っていたのでした。
橋岡久馬師との出会いは、やはり「正論」の取材が縁でした。こんどはインタビューではなくグラビアでした。そのグラビアは「私の写真館」という通しタイトルでいまも続いていますが、もともとグラビアは私の担当ではありませんでした。当時、グラビアを担当していた同僚は免疫学の世界的な権威である多田富雄博士と付き合いがありました。
多田博士は橋岡師と五十年近い交流がありました。橋岡師が演じて話題を呼んだ新作能「無明の井(い)」は脳死をテーマにしていますが、原作者は多田博士です。ニューヨークなどでも上演し、大きな反響呼んだということです。ずっと橋岡師は新作能に関心を示しませんでした。芸術院会員だった橋岡師の父親、七世久太郎は、「新作能に色気を出したら精力の無駄遣いになる」といっていたそうです。橋岡師は父親の言いつけを守っていたのです。
「それでも私が編曲、振り付けをしたのは原作の素晴らしさによります。私はこれを芸の結婚と思っています。多田博士は男親、対する私は女親です。そして、生まれた子供が『無明の井』です」と、橋岡師は述べています。
同僚は多田博士の著作か何かで橋岡師を知り、「私の写真館」への登場を考えたようでした。
じつは、それ以前から私も橋岡師の舞台を見ていました。橋岡師は東京郊外にお住まいがあり、私もその近くに住んでいました。毎年秋に地元の城址公園で橋岡一門による薪能がひらかれ、私も欠かさず見ていました。
ただ、橋岡師とは遠くから一観客として接するだけで、お話しする機会もありませんでした。同僚から橋岡久馬師の名前が出たとき、ああ、その人なら、家の近くの人だ、と自分が担当することを申し出たのでした。
もし、このとき同僚がグラビアを担当していたら、ずっと私は同じ町に住んでいても橋岡師の舞台を見る一観客にすぎなかったかもしれません。
橋岡久馬師は大正十二年(一九二三年)、観世流シテ方の名門、橋岡家の長男として生まれました。生前、橋岡師に聞きましたところ、橋岡家の初代泰次郎は江戸の中期、上方で謡曲指南であったそうです。六世忠三郎のときに、謡曲から能に転じました。
「いままでは座り込んで謡っていればよかったのですが、今度は立ち上がって能楽師になったというわけです」
と、橋岡師は笑っていいました。
橋岡師は幼稚舎から大学までの生粋の慶応ボーイでした。仏文科では作家の遠藤周作と同期でした。昭和四十年にフランス政府給費留学生として渡仏。「とても狭き門でしたので、私にとって生涯でいちばんうれしい出来事でした」と橋岡師は語っています。フランス語はペラペラでした。
予備知識がとぼしく、能はなかなかついていけません。
「能を理詰めで理解しようとしないで下さい。ただ、漠然と見て、感じ取る。それでいいのです」
そう橋岡師はいうのですが、もっと勉強して、もっとたくさん橋岡師の能を見ておくべきだったと悔やんでいます。
何度か拙宅にも寄っていただき、私の仲間も呼んで芸談を聞きました。ご自宅に招かれて手作りの料理をごちそうになったこともありました。フランス仕込みのワイン通で、能以外でも教わることがいろいろありました。
伝統芸能の継承者とお話ししていると、どこか心が洗われていくような気分になります。橋岡師にはその上どこか気宇壮大なところがあり、そこにたいがい上質のワインがありますので、なおいっそうさわやかな雰囲気がかもし出されます。ひょっとしたら、これが上流社会で日常的に見られるものかな、と思ったこともありますが、肝心のハイソサエティーを知りませんから比較のしようもありませんけれど。
いずれにしても能楽界は一人の鬼才を失いました。こんご能楽界は果たして鬼才と呼ばれる能楽師を輩出できるのでしょうか。門外漢ではありますが、そんなを心配しています。
「正論」編集長 大島信三
| 「正論」平成16年5月号 |
編集長メッセージ
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