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お答えします
▼質問=武蔵野市の長屋恒久さん(78歳)から。
日本軍による重慶爆撃について、具体的なことをお教え頂きたいのです。
広島・長崎への原爆投下と、三月十日の東京大空襲は、市民に対する無差別攻撃であることはよく分かりますが、これと同列に並べて、重慶爆撃が市民に多くの犠牲をもたらす大規模空爆であったとする昨年八月八日の朝日新聞の「窓 論説委員室から 吉田文彦」のコラムに疑問があるのです。
日本軍の飛行機は、双発の九六式陸上攻撃機だろうと思いますが、積載量は米軍機の半分にも満たないだろうし、当時の我が国の国力から考えて参加機数も僅かであったろうと思います。
軍事施設を狙った爆弾が外れ、たまたま一般市民に死傷者が出た程度だったのではなかろうかとも想像しておりますが、大新聞の論説委員さんの署名入りのコラムなので、日本を悪者にするために敢えて嘘を書いたとも思えず悩んでおります。
各爆撃の参加機数・投下爆弾の種類数量・死傷者数などを具体的にお教え下さい(四月号)。
▽回答=富士宮市の慈光寺崇浩さん(71歳)から。
この重慶爆撃は、主に海軍航空隊によって行われたもので、昭和十三年二月十八日を皮切りとして、同年には三次、十四年には十三次、十五年には四十六次、そして大東亜戦争の始まる直前の十六年には、重慶さえ叩けば蒋介石政府が手を上げるだろうとの見当違いの予想のもとに特に激しく行われ、五月三日から九月二十八日までの間に海軍航空隊だけで三十二次も重慶を空襲したとのことです。特に八月中旬から月末にかけて行われた第二十六次から第三十次の攻撃は凄まじく、この間昼夜のべつまくなしの波状攻撃で、漢口の基地から重慶に飛んだ海軍の重爆撃機は、延べ二千四百機、投下した爆弾は一万五千個と記録されているそうです。
この間重慶空軍の反撃はほとんど無く、対空砲火は有ったでしょうが、たいした抵抗は受けず、我が軍の損害はほとんど無かったそうです。この重慶定期便もいたずらに爆弾を消耗するだけで、一向に効果が上がらないうちに大東亜戦争となり、海軍航空隊は南方戦線に転進して、重慶爆撃は一段落したとのことです。以上、元毎日新聞社ラジオ報道部副部長、益井康一氏の『大陸航空決戦の實相』に記述されています。
このことから考えると、ほとんど無抵抗の都市にこれだけの攻撃を加える軍事基地が有ったとは考えられず、残念ながら無差別爆撃であったと言われても、よほどの証拠が無い限り反論の余地は少ないものと思います。
なお、私は終戦当時中学二年生で、軍隊経験は有りません。
▼質問=秋田市の藤原信悦さん(司法書士・56歳)から。
昭和十七年二月下旬、帝国海軍潜水艦「伊十七号」がアメリカ・カリフォルニア州サンフランシスコ近くの油田地帯を砲撃したという写真を見たことがあります。もし本当であれば、わが海軍はアメリカ本土を攻撃したことになります。
事の真否、詳しい情報をご存じの方はご教示願います(五月号)。
▽回答=山梨県御坂町の菊地留太さん(73歳)から。
「事の真否」ということからいえば、真です。平成八年十二月八日から産経新聞に連載され、その後出版された『紙上追体験・あの戦争』によると、次のようになっています。
「昭和十七年二月二四日(火) 潜水艦伊17、米本土西岸のエルウッド油田を砲撃」(同書14ページ)
お説のとおり「わが海軍がアメリカ本土を攻撃したことに」なります。この事件を題材にしたアメリカ映画があります。あまりにも日本海軍を馬鹿にした映画のようなので、私は初めのところしか見ていません。その他の米本土攻撃を次に列挙します。
1、昭和十七年六月三日〜五日(金)
第二機動部隊の攻撃隊がアリューシャン列島東端(ここも米本土)のダッチハーバーを空襲(同書28ページ、雑誌『丸別冊・運命の海戦』土井美二著「私の見たミッドウェー作戦」136ページ)。
2、同月二十二日(月) 潜水艦伊26が、米西岸オレゴン州のアストリアを砲撃(前記『あの戦争』31ページ)同艦はその前日にカナダのバンクーバー(米本土ではないが)も砲撃(同書30ページ)。
3、潜水艦伊25の搭載機がオレゴン州の森林を爆撃(同書42ページ)。
なお、米本土といえるかどうか分かりませんが、やはり潜水艦搭載機が、当時アメリカの租借地であったパナマ運河を空襲したことを、おぼろげながら覚えています。その資料は伊藤正徳著『連合艦隊の最後』にも、山岡荘八著『小説太平洋戦争』にも『丸・別冊』その他の資料にも見当たりませんので、残念ながら詳細は不明です。開戦当初、日本の潜水戦隊が北米大陸の西岸を哨戒していたようです。
▽回答=周南市の西巻正日児さん(76歳)から。
昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃に参加した伊17潜はじめ十隻の潜水艦群は、昭和十七年二月一日、マーシャル群島のクエゼリン環礁に投錨していたところ、北米西海岸に向かうべく出撃命令が出た。二月二十一日北米とメキシコ国境に近い米海軍の軍港サンディエゴ沖に到着した。この広い北米大陸の西岸には伊17潜一隻のみ配備された。
鳩首会議の結果、決定したのは加州のサンタバーバラ海峡に入った所にあるエルウッド油田である。砲撃によって、油田に大火炎を起こすことができれば上出来。すぐ近くの映画の都ハリウッドの美男美女の心胆を寒からしむる効果が上がれば二重の喜びである。
二月二十四日終日潜航して、時々潜望鏡を上げて艦位を測定しながら、日没の一時間前に予定地に到着した。石油タンク群が夕日に照らされ銀色に輝き、精油所の建物が見える。道路には自動車が朱色のテールライトを輝かせて走っていく。
〇エルウッド油田砲撃。
日没、艦長は、「浮きあがれ!!メーンタンクブロー」と号令、砲員は脱兎のごとく位置につく。第一目標照準、「撃ち方始め!!」、時に現地時間午後七時十分。「ダーン、ダーン」石油タンクに命中しているが火炎は起きない。焼夷弾ではなく通常弾であるのが残念だ。十六弾、十七弾、艦の番号と同じ弾数を撃ち終わった。
「撃ち方やめい!!」、砲員はすぐに艦内に潜り込み、艦は両舷前進高速航走充電しながら暗闇となった海面を湾口に向かって脱出した。
以上、千治松彌太郎氏(当時伊17潜水艦、軍医中尉、軍医長)の自費出版「マニラの落日」の一部を照会しました。
同氏は終戦時、海軍軍医少佐で平成十三年十一月十八日、八十四歳で逝去されました。
▼質問=松戸市の在塚喜久さん(87歳)から。
大正の終わり頃か昭和の初め頃、『少年倶樂部』に記載された「その夜の侍」と題した詩文をご存じの方、ご教示下さい。
宿貸せと
縁に刀を投出した その夜の
若いお侍
眉間に凄い太刀傷の 血さへ
乾かぬお侍
………………………………
伏見街道の一軒家
その夜炉端で遊んでた 子供
は僕のお祖父さん
吹雪する夜はしみじみと思い
出しては語ります
うまく逃げたか 斬られたか
縁に刀を投出した その夜の
若いお侍
血腥い話で恐縮ですが、当時『少年倶樂部』を愛読していた私は、お祖父さんから「その夜の侍」の話を聞く年頃でした。「鳥羽伏見の戦い」という舞台を昭和の戦争に置き換えると、炉端で遊んでた子供は今や古稀に近く、小学生の孫に戦争の思い出を語るの図となり、そして血刀を振って闘った侍は私自身(十歳ほど老けてますが)という寸法で、気になる詩である次第です(四月号)。
▽回答=京都市の加藤孝一さん(染色デザイナー・82歳)から。
お尋ねの「その夜の侍」と題する詩文は、少年倶楽部名作選(昭和四十一年講談社刊)の、少年詩編に収録されていました。
その夜の侍
西条八十
宿貸せと 縁に刀を投げ出した
ふぶきの夜のお侍。
眉間にすごい 太刀傷の
血さえかわかぬお侍。
口数きかず 大いびき
暁までねむってゆきました。
鳥羽のいくさの すんだころ
伏見街道の一軒家
その夜、炉ばたで あそんでた
子供はぼくのお祖父さん。
ふぶきする夜は しみじみと
想いだしては話します。
「うまく逃げたか、斬られたか」
縁に刀を投げ出した
その夜の若いお侍。
(昭和二年三月号)
私は父が軍人であった関係で、腕白の少年時代を、京都第十六師団の所在地である伏見深草で過ごしましたが、この地は昔、「鶉鳴くなり深草の里」と歌われ、今は「兵どもの夢の跡」として語り継がれて来ました。そして「鳥羽伏見の戦い」のことはよく古老から聞かされたものです。
それにつけても、この「その夜の侍」と題する西条八十の少年詩は、深手を負って敗残の身を横たえる若侍の「哀れ」を偲ぶものですが、私たち年輩の者にはこの詩とは裏腹に、小学唱歌『冬の夜』の一節、「囲炉裏の端に繩なう父は、過ぎし戦の手柄を語る。居並ぶ子供は眠さ忘れて、耳を傾け拳を握る。囲炉裏火はとろとろ外は吹雪」を思い出します。
私は後年、学徒出陣で出征。戦い敗れ生き恥を晒して帰って来ましたが、靖国の宮に眠る学友、戦友の御霊に護られて生き永らえ、歳八十路を超す祖父となり、今更ながら、詩人西条八十が偲ぶ戦の「哀れ」を、しみじみと噛みしめている次第です。
▲補足=朝霞市の佐々木彰さん(63歳)から。
四月号の谷野さんの質問に対する五月号の伊藤さんの回答を拝見しました。伊藤さんは沖繩本島から約三十キロ離れた渡嘉敷島における日本軍の殺害行為を肯定していますが、その証拠が無いという論文があります。谷野さんも伊藤さんも、平成十五年九月号「正論」掲載の曽野綾子女史執筆の「沖繩戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」を読まれることをお薦めします。
これは渡嘉敷島にて海上挺身第三戦隊の赤松隊(隊長は当時二十五歳)が、民間人に対し自決命令を出したと言われていることの信憑性を曽野女史が調査した記録です。命令を出したという証拠はありませんでした。逆の証拠もありません。問題は証拠の有無ではなく、左派側の調査が全く無かったという事実が表面化したことです。他の虐殺も同じでしょう。
私は数多くの資料調査結果より、日清戦争から日露戦争、大東亜戦争に至るまでの日本軍の規律とその人間性は第一級であることを信ずるに至りました。南京事件も含め中国内での虐殺行為と言われているものも虚構です。証拠と言われる写真や映像は、後から作成または転用されたものが多い。すべての史実を証拠立てることは不可能ですが、本来無いものの証拠は無いとも言える。
本件は歴史教科書に載っておりませんが、仮に歴史教科書に載っていたとしても事実に対する検定の信憑性が崩れており、生徒は事実かどうか分からず、うのみにするだけです。究極的には、日本の歴史や日本の国を愛するのか、軽蔑するのかという問題に行き着くでしょう。入学試験の受験生に対する問題は全く別ですが。
| 「正論」平成16年6月号 |
ハイ、せいろん調査室です
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