チリが積もってもチリの山
自営業・熊田ひろし(武蔵野市・61歳)
田中真紀子議員の娘に関するゴシップ記事を掲載した週刊文春に対して、東京地裁と高裁の判断が分かれた。大半のマスコミは高裁の判断を支持した。
記事の内容はプライバシーの侵害に当たるのか否か、原告は私人か公人か、プライバシーの尊重と表現の自由の尊重の優先順位−−云々の問題は、今回の場合小さな事柄だったと思う。それよりも、ゴシップ記事のごとき「小事」を、言論表現出版の自由の尊重と国民の知る権利に応えるもの−−という大仰な問題に仕立てるマスコミの姿勢が不思議でならない。マスコミは「小事を疎かにしているといずれ大事への権力の介入の口実を与える」という論理を展開しがちだが、そんなことはない。
小事はいくら足しても小事である。チリが積もっても出来る山はやはり「チリの山」に過ぎない。小事と大事は、連続性のない互いに異質のものである。
マスコミは日頃、大事に係る言論表現出版の自由を尊重しているのかと改めて問いたい。たとえば松本サリン事件で、河野義行さんを犯人扱いするという重大な人権侵害をやらかした責任をどう取ったか? あの事件こそ「大事」であった。大事の責任を取らぬ者に自由を云々する資格はない。
プライバシーを売りものにしている週刊誌にとって、言論表現出版の自由は重すぎる概念だったというべきだろう。
尖閣問題、今こそ毅然とした態度を
無職・新保昇男(小樽市・70歳)
日本政府はついに尖閣諸島魚釣島の領有権を放棄した。同島に上陸した民間団体と称する中国人七人を警察は一応逮捕してみせたが、その後、異例のスピードで強制送還処分をした。国内的には「強制」「処分」という語でごまかせるかもしれないが、実質的には中国政府の要求に従って即時無条件釈放したものである。中国政府の要求の前提に、同島が中国固有の領土であるから日本側の逮捕は不法逮捕であるということがあった。そのことは、「強制送還」を報ずるメディアは一切触れることはなかった。
その処分をした政府の思惑はいろいろあるようだが、その思惑が国際的に、特に中国政府に通用するものかどうか。同島が中国領であることを「公式」に表明したこととなるのではなかろうか。
領土に関する我が国の軽視的態度はやがては沖縄列島から日本列島の領有権にも及んで来ないとは言えないだろうと懸念する。竹島はついに切手に描かれるほど韓国の実効支配の外形を整えられたが、そうならないとは言えない日本政府の姿勢である。米国は尖閣諸島にも安保条約の効力は及ぶと言明してくれたが、日本政府が中国政府の領有権を公式に認めた島を自動的に米国が防衛してくれると考えるのは馬鹿げている。
中国は、やがてスプラトリー諸島のある島に実行したようなことをしようとするのではないか。その段階まで進んだ時に、現状を放置したことを悔やんでも追いつくものではない。その時、回復しようとすれば、それこそ自衛権の行使云々ということとなる。現在の段階で毅然とした態度をとって物事を処理しなければ、平和ボケ国家は思いもかけなかった状態を自ら招くことになるのではなかろうか。
憲法と靖国神社と宗教
元会社役員・高木幹雄(函館市・72歳)
四月七日、福岡地裁で小泉首相の靖国参拝は違憲という初の判決が出された。亀川清長裁判長の判決文では「神道の教義を広める宗教施設である靖国神社を援助、助長、促進する効果をもたらした」という。こんな不勉強な判事がいるのかと驚いた(傍線筆者)。
確かに憲法第二〇条三項には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と書いてある。一つの疑問は神仏への参拝が“宗教的活動”になるのかということであり、仮に宗教的活動とするならば、靖国神社よりも歴代総理が毎年恒例となっている伊勢神宮参拝のほうが遥かに大きな問題になるはずである。
宗教の概念は、神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離された神聖なものに関する信仰であり、それに帰依する者は精神的共同社会(教団)を営み、開祖、教祖、経典、教義等を持っているはずである。
伊勢神宮は皇室の宗廟として神道の中心にあるだろうが、靖国神社には開祖も教祖もないし、判事の言う“教義”というものもない。
だいたいご祭神が二百四十六万六千余柱もある神社はほかにない。
靖国神社への参拝は、国家安泰、家内安全、商売繁盛を願ってご利益を得るのではなく、純粋に『戦没者への感謝と追悼』だけであろう。たまたま明治十二年、慰霊のための『招魂社』を維持管理するために『神社』と改称し、別格官幤社にしたから神道の社と同じに見られているが、あくまでも『別格』なのである。
『神社』と呼ばれてもいわゆる宗教の場ではない。それは〇〇学会という呼称でもれっきとした宗教団体があるのと同じだ。
戦後マッカーサーが靖国神社焼却を考えた時、反対意見を述べたローマ法王庁駐日バチカン公使代理ビッテル神父の言葉を思い出す。「いかなる国家も、その国家のために死んだ人に対して、敬意を払う権利と義務があり、戦勝国、敗戦国を問わず平等の真理である。信仰の自由の中で、どんな宗教を信仰している人であろうと、国のために死んだ人は靖国神社で追悼されるべきである」と。
| 「正論」平成16年6月号 |
論文
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