お元気ですか。
五月二十五日昼、上野の東京都美術館でひらかれている「栄光のオランダ・フランドル絵画展」(ウィーン美術史美術館所蔵、四月十五日〜七月四日)を観てきました。平日なのに、予想外の入りでした。
ルーベンス(1577−1640)、ファン・ダイク(1599−1641)、レンブラント(1606−1669)といった巨匠の作品が展示されています。しかし、ほとんどの人がフェルメールの「画家のアトリエ」をお目当てに上野へやってきたはずです。女子高生や若いカップルの姿が目立ちました。おそらく映画「真珠の耳飾りの少女」の影響もあるのでしょう。
有名なフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」はオランダ・ハーグのマウリッツハイス美術館に展示されています(この絵は通称「青いターバンの少女」といいます)。ご存じの方も多いと思いますが、瞳がきらきらと輝き、艶やかな唇をちょっとひらいた、とても魅力的な少女の絵ですね。一六六六年前後の作品です。
この絵のモデルがだれで、どういう経緯で書かれたかはわかっていません。トレイシー・シュヴァリエという人が想像をたくましくしてフェルメールとモデルになった少女の恋愛小説を書き上げました。シュヴァリエはモデルになった少女をフェルメール家の十七歳の小間使いに設定しています。フェルメールは子沢山の妻帯者。この天才画家と少女の切ない恋物語が世界で二百万部の大ベストセラーになりました(日本では木下哲夫訳『真珠の耳飾りの少女』が白水社から刊行されています)。
都美術館へ行く前の話ですが、この映画が銀座四丁目の和光裏通りの映画館「シネスイッチ銀座」で上演されているというので行ってきました。振り返ってみれば、五月は十二日夕刻に十一代目市川海老像襲名披露の歌舞伎座へ行ったり、十四日夕刻には映画館、はたまた美術館へと結構優雅な日々でした。世の中は年金だ、小泉訪朝だと騒がしいのに、一体、『正論』編集長はそんなにヒマなのか、とお叱りを受けそうですが、忙中閑あり、なんとか時間のやりくりはつくものです、ハイ。
そんなことはともかく、映画館へ到着して驚きました。若い女性たちが列をつくっているのです。この作品にかぎらず映画産業は彼女たちが支えているのをあらためて実感しました。そういえばフランス料理店とかイタリア料理店も昼は主婦、夜は若い女性でいっぱいですね(なにも今更の話でもないですが)。うちの雑誌も、もっと女性の皆さんに関心をもたれたらいいのですが、まだまだです。なにか妙案はないでしょうか。
少女グリートを演じたスカーレット・ヨハンソンがよかったですね。青いターバンの少女の雰囲気がよく出ていました。
ふたたび「栄光のオランダ・フランドル絵画展」に戻ります。
じつは私もフェルメール「画家のアトリエ」のお目当て組のひとりでした。ウィーン美術史美術館には何度か行って、必ずこの絵は観ていました。でも、旅先というのはせわしないでしょう。こんどはじっくり観てやろうと思っていました。入場料千三百円はもったいないが、この絵一枚だけを観て帰ってもいいとも思っていました。そう思うだけで王侯貴族のような気分になりました。人間なんて単純ですよね。
館内に入ったらまず「画家のアトリエ」に直進することにしました。わき目もふらずに目標物に向かうというわけです。一歩展示室に入ったら、王侯貴族のマネはばかばかしくてすぐ断念しましたが、直進は実行しました。目が疲れないうちに観ようという理由からです。ところが、ちらっと観るといい絵があるのです。立ち止まりたい誘惑にかられましたが、ここはじっとがまんです。
かつての私もそうでしたが、美術鑑賞というと入り口のパネルから(はなはだしいときは主催者のあいさつまでも)読み始めて個々の絵の説明をばか丁寧に目で追っていました。したがって、途中で目はしょぼしょぼ、全身がくたくたになって、後半はぱっぱと眺めるだけでせいいっぱい。外へ出ても肝心の作品の印象はどこかへ消えて、へとへとになるときがままありました。
さて、館内で一人、作品には目もくれず、どんどん進んで行ったのですが、フェルメールがないのです。上の階にもない。いやな予感がしました。これだけ高名な絵だからウィーン美術史美術館は貸し出し期限をつけたのではないか。もうウィーンに戻ったのかもしれない。人間というのは悪いほうへ、最悪へと考えるでしょう。
そういうことは実際にあり得るのです。ウィーン美術史美術館には世界中から美術愛好家が訪れます。当然、フェルメールの「画家のアトリエ」を愉しみにしている人が少なくありません。これほどの絵が海外に長期出張していると、ウィーン美術史美術館への怨嗟の声が高まらないともかぎりません。美術館の営業に響くこともあります。
私も身にしみて悲哀を感じたことがありました。ベルリンだったか、ドレスデンだったか、いまちょっと度忘れしましたが、フェルメールを観に行ったらないのです。
「いま、ニューヨークです」
こう係員にいわれたときは、がっくりしました。
さらに上の階へ行ったら、フェルメールはここにある、という表示がありました。ほっとしました。最後の展示がフェルメールだったのです。ヤレヤレです。ええ、やはりフェルメールはすばらしいですね。
あの映画では「画家のアトリエ」のモデルもやはり青いターバンの少女という設定です。フェルメールが描いた二人の少女のイメージはちょっと違うのですが、これはあくまでも現代作家の創作ですから目くじらをたてることもないでしょう。
「栄光のオランダ・フランドル絵画展」は七月十七日から十月十一日まで神戸市立博物館でもひらかれます。わが産経新聞社ではなく、読売新聞社の主催です。他社の催しであれ、見ごたえのある作品が多いのでお知らせしておきます。
「正論」編集長 大島信三
| 「正論」平成16年7月号 |
編集長メッセージ
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