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新たな目標は大学野球。僕は、田淵、山本、富田の三羽ガラスが飛ぶ鳥落とす勢いの法政大学のセレクションに合格、全国から猛者が集まる中で七、八名という狭き推薦入学枠に入ることができた。大学通算四十八勝を挙げ「小さな大投手」と呼ばれた山中正竹と一緒に一年から二人だけリーグ戦のベンチに入り、ひたすら野球に邁進できると思ったが、順風満帆とは行かなかった。
先輩が後輩に課す“しごき”の意味を僕は全否定しないが、それにも限度がある。単なるいじめになってはいけない。四年生の秋、あまりの後輩いじめに見かねて止めに入り、思わずポカリとやった。当時の監督とは反りが合わなかったが、この一件で「反抗的」の烙印を押され、プロを目指しながら、僕は大学最後の秋季戦の舞台に立つことができなかった。
熊谷組に入って二年目の昭和四十六年、突然東映から声がかかった。「棄てる神あれば拾う神あり」だったが、何とその年の秋には南海へトレードされた。野村克也監督の引きだった。ノムさんは前々から僕を見ていてくれたようで、「お前は使える男や」と背番号16をくれた。人を一瞬にしてビッグバンさせる野村マジックで僕は大きく変わった。いきなり十六勝を挙げ南海の勝ち頭に。僕のプライドや心意気をノムさんは実にうまく活かしてくれた。期待に応えたい、そう思わせる気配りがノムさんにはあった。だから「旅に出てこい」と阪神に出されたときも苦笑いで頷くしかなかったのである。
阪神でも僕は精一杯投げ続けたが、アクシデンタルな引退劇の裏には、「野球ばかりが人生やない」と思わせる理不尽なものがあった。忍の一字で堪える手もあったが、僕の反骨精神は新たな舞台へと僕を走らせた。思えば甲子園出場を断たれた少年時代の絶望がその後の僕に本当のプライドを教えてくれた。自分に負けない意地を持て、ということである。
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