「小泉総理、イラクの空手界では必ず日本からセンセイを招いて指導を頂いております」。イラクのオリンピック委員会事務局長のオディシオ氏は、椅子から身を乗り出して言った。今年四月十五日、総理官邸でのことである。
空手六段の彼は続けた。「何故なら我々は空手が、勝ち負けにのみこだわる欧米のスポーツのようになることを避けたいからです。日本の武道をやると、人格形成と相手に敬意をもつことの大切さを学べるのです」。
これを受けて、団長のアル・サマライ委員長が言った。「それこそ宗派や肌の色を異にするイラクの若者達が、これから国の再建のために団結していく上で何より必要なものなのです」。長年反フセイン活動の闘士だったサマライ委員長の言葉は、私にとって新鮮であった。昨年夏に四年ぶりに日本に帰って以来、日本を覆う閉塞感を感じていたからである。
アテネでイラクの国旗を翻らせたい
日本政府はイラクの国家再建を助けるため、十五億ドルの資金援助や、現場でイラク人とともに汗を流す自衛隊派遣に加え、文化・スポーツ面での協力に力を入れてきた。外務省がその窓口になっている。
昨年十月、イラクにかつての人気TV番組「おしん」が提供されたことはご記憶の方もあろう。イラク国立博物館の館長を招待し、略奪、破壊された博物館の修復に協力することにもした。また「サッカー仲間を助けよう」との呼びかけで日本サッカー協会が集めたサッカー・ボール、ユニフォームなどを政府が輸送した。外務省自身もボール一千個やゲームジャケットなどを買って、自衛隊機C130でサマーワに送った。六月十日には同地のサッカークラブと自衛隊の交流試合も行われた。
柔道でも、ロス五輪の金メダリスト山下泰裕氏のイニシアティヴの下で全日本柔道連盟と協力して柔道着や公式試合用畳を贈り、招待したイラクの柔道連盟会長に手渡した。
用具の贈与だけではない。イラクのサッカーチームが今年二月に親善試合のため日本を訪れたとき、渡航費を負担し、またこの試合のテレビ同時中継を支援した。サマーワの市民がこれを観戦している写真が日本の新聞にも載った。
何より力を入れているのは、アテネ・オリンピックや九月のアラブ大会などの国際試合への参加を目指すイラクの選手のために、スポーツ用具を寄贈し、強化選手をトレーニングのため日本に受け入れることである。日本オリンピック委員会がレスリング、柔道、陸上の選手、コーチ計十五人を受け入れてくれる。この原稿が出る頃にはすでに、アテネ出場を認められた柔道の選手が日本で合宿をしているであろう。アテネでの開会式に選手団が着るユニフォームも日本の有名デザイナーのものとなる。
これらの協力には、多くの困難を伴った。バグダッドの治安、通信体制の悪さ、受け入れ団体の混乱により、ひとつひとつの作業に思わぬ時間と手間がかかった。担当官はほとんど毎日徹夜しながら、ものごとが思うように進まぬ焦燥感に苛まれ続けた。
それでも常に我々の脳裏にあったことがある。それは一九四九年、ロス・アンゼルスの全米水泳選手権で古橋廣之進選手が世界新記録で優勝し、敗戦に打ちひしがれ、米軍占領下で必死に国家再建に取り組んでいた国民に大きな励みと勇気を与えてくれたことである。アテネにイラクの国旗を翻らせることで、イラク国民に是非とも同じ経験をさせてあげたいとの一心が、我々を支えた。
イラクに限らず国づくりに励む発展途上国は、グローバリゼーションのプレッシャーの下で、限られた資源を経済開発・改革に使わざるを得ない。文化やスポーツはどうしても後回しになる。国民は懸命に働きながら、祖先が残してくれた文化遺産が崩れ、民俗芸能が廃れていくのを座視しなければならない。若者が好きなスポーツで発散しようにもまともなスタジアムすらない。政府も、援助を受ける際に課されるコンディショナリティー(援助条件)ゆえに、国民の「誇り」である文化・スポーツに資源を投入できぬジレンマに悩んでいる。そうでなくともかつて植民地化されてプライドを傷つけられ、またもや欧米型経済政策を押しつけられているという被害者意識をもちがちの途上国国民にとって、自らのアイデンティティーが失われつつあるという心の痛みは大きい。
日本の文化・スポーツ面での協力が、ODAの総額に比べれば微々たるものにもかかわらずイラクの人々に評価されるのには、こうした背景がある。しかし日本の協力が彼らの心を捕らえるもうひとつの理由がある。そこには欧米にない精神的価値観が込められているからである。
【略歴】近藤誠一氏 昭和二十一年(一九四六年)生まれ。東京大学教養学部卒。同大学院法学政治学研究科を中退し四十七年、外務省入省。北東アジア課首席事務官、国際報道課長、在米大使館公使、経済協力開発機構事務局次長などを経て、昨年八月より文化交流部長(今年八月の機構改革で現職)。著書に『米国報道にみる日本』『歪められる日本イメージ』。
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| 「正論」平成16年9月号 |
論文
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