FUJISANKEI
 COMMUNICATIONS
 GROUP
 Opinion
 Magazine





 seiron
 


 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>



9月号



息子の命名
専業主婦・斎藤睦子(仙台市・47歳)

「結婚してもいいなあと思った人は、何人か居たけれど、皆戦死してしまった」

 お産扱いに来てくれた姑の言葉です。

 大正十一年生まれの姑は、当時、師範学校を出て故郷で小学校教員をしておりました。姑の青春時代は正に戦争一色。好意を寄せたであろう若者たちもまた、家族のため故郷のため、そして日本の国のため戦った時代。自分で自分の人生を切り拓くなど及びもしない中で、必死に生き抜いてきた姑の半生を興味深く聞いておりました。

 その夜、私は産気付き「戦争がなければ、この子も生まれて来ることはなかったんだ」という不思議な感覚に包まれて、無事男の子を出産しました。翌朝、産院にやってきた姑は私の耳もとで囁(ささや)きました。「この子の名前、『浩太郎』ってつけてけさいん。私の初恋の人の名前」。「やられた」と思った時はすでに遅く、産後の思考停止状態の私は見事、姑に押し切られてしまいました。

 あれから二十年。浩太郎という名を受け継いだ息子も成人し、歯学生として勉学に励んでいます。姑は息子が幼稚園の時、亡くなり、もうじきお盆がやってきます。

 日本が戦争をしたということ、それがよかったのか悪かったのか、それを論じること自体、許されるのかどうかさえ、私にはよくわかりません。ただ一つ、間違いないのは、直系の子孫を残すことなく命を投げ打った大勢の若者たちが居て、その無事をひたすら祈り続けた大勢の娘たちが居たということです。

 お盆にはご先祖様に手を合わせることはもちろん、浩太郎さんのような人たちにも思いを馳せ、決して忘れずにいたいと思っております。

 

「脱走兵」で苦しい思い出
無職・小島正吉(足利市・85歳)

 曽我ひとみさん一家四人がインドネシアのジャカルタで再会した。しかし夫の元米国軍人ジェンキンス氏が脱走兵だったので、軍律の厳しい米国の脱走罪に対する訴追が心配である。

 ところで脱走兵というと、苦しい思い出が浮かんでくる。私は昭和十五年一月、現役兵として北支派遣軍に入隊を命ぜられ、輸送船で玄界灘の荒波を越えて、中国山東省の青島に上陸、そこから貨車で張店という駅に着き、そこに駐屯する部隊に入隊した。翌日から厳しい内務班教育が始まり、屋外での戦闘訓練は更に厳格さを増す。教育係上等兵の叱咤の声とびんたが飛ぶ。飯の食べ方が遅い、兵器の手入れが悪い等、情け容赦なく鉄拳が顔を襲うのは日常茶飯事の野蛮さだ。更に極寒極暑の中での行動は正にこの世の生き地獄の様相を呈した。

 ある日の夜、消燈ラッパが鳴った直後に「非常召集」があり、「他の中隊の初年兵が脱走したので捜索せよ」とのことで、大隊全員が営庭に集合し、数時間に及んで兵営外の暗夜を捜したが、ついに見つからなかった。その新兵は日ごろから厳しい毎日を嘆き、「死にたい」と戦友に洩らしていたという。覚悟の脱走であったろうが、他人事ではなく悲しかった。

 ジェンキンス氏も戦争、軍紀に矛盾を感じての脱走だと思うが、米軍と旧日本軍の軍隊や戦争に対する厳しさは大同小異だろう。戦争は本当に悲劇を生むものだとしみじみ思う。

 

インドネシアとの友好築いた残留元日本兵
無職・吉田 博(栗東市・83歳)

 今日(七月十三日)の報道によると、ジェンキンス元軍曹の気持ちが日本来住に傾いたとのことだが、米国とは一線を画しながら米国の同盟国の我が国の要請に快く応じ、曽我さん一家に落ち着いて話し合える場を提供してくれたインドネシア政府と、これを静かに見守ってくれている同国民への感謝を忘れてはなるまい。

 ところが驚いたことに、我が国では私の周囲のほとんどの人がインドネシアの我が国への親密感の要因に、戦後のスカルノ初代大統領とデビさんのゴシップをあげる。テレビ娯楽番組の感化力ここに極まれりと言うほかない。だが、真の要因はさきの大戦終結直後、武力で再植民地化を図るオランダ軍と戦い勝利した独立義勇軍に参加、七百人あまりの戦死者を出し、独立後は復興に与して同国政府から今も称えられている三百余人の残留元日本兵とその子弟の功績によることが大きいのである。

 この件は本誌(平成九年四月号から十一月号まで八回連載)に上坂冬子さんが現地取材の「南の祖国に生きて−−インドネシア残留元日本兵の現在」で詳しく紹介している。取材当時、全土での残留日本兵の生存者は五十人、平均年齢七七・五歳と記しておられるから現在の生存者は微々たるもので、今活躍している多数の日系人はその子弟たちである。

 さてジェンキンス元軍曹だが、軍籍にあった我々年代の者には理解しがたい点が多い。それはさておき一言だけ言わしてもらおう。

 このチャンスを逃せば君に明日はない、一日も早く一家で来日し、米軍に出頭し軍法会議の裁きをうけなさい。同盟国日本の官民あげての曽我さんへの同情論を今なら米国政府も無視できないだろうから。日本には「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の諺(ことわざ)がある。

 

「在日」の両親はいかにしてやってきたか
自営業・星本尚子(横浜市・40歳)

 私の父は大阪で生まれ、二度、韓国に渡ったのち日本に永住した。一度目は祖父が病死したため、祖母と共に祖父の里である済州道に帰った。父がまだ幼児の時である。その後、留学のため単身で内地に戻り、終戦直前に済州道に渡った。後に「南朝鮮労働党」に加入する。

 故郷で迎えた叔母の述懐によると「悪魔の思想を日本から持ち帰った」そうである。一九四八年にいわゆる四・三事件に関係して指名手配をされるが、村人の協力により日本に逃れることに成功した(この時、犯人隠匿の罪で多くの人が処刑され、祖母や叔母は投獄された。この事件は生涯父を苦しめる)。そのまま日本に永住。八一年死亡。

 母方の祖父は京都の大学に留学するため、内地に渡った。一度帰郷して結婚。のちに事業のために内地に戻り永住した。八九年死亡。母は自宅の座敷で玉音放送を聞いた日のことを鮮明に覚えていた。祖父はきれいに整えた棚の上にラジオを置き、その前の畳にひれ伏した。途中、敗戦のお言葉であることに気づくとがっくりとくずれるようになったそうである。とにかく母方の家は、完全に日本に同化していた。母は終戦まで自分が朝鮮人とは知らなかった。その後、私を含めほとんどの近親が帰化した。

 このように、少なくとも私の祖先たちは自発的に日本に渡っており、周辺でも「強制連行」されたという人を私は寡聞にして知らない。ただマスコミから聞かされるのみである。

「アカ」であった父は総聯の幹部となったが、六〇年代に転向し、晩年には韓国系紙の編集委員となった。しかし父は私を朝鮮人として育てるつもりはなかったように思う。私が父から学んだ文化といえば、年に数回先祖の祭祀を行うことくらいである。正月は神社に行き、祝日には日の丸を掲げる。その習慣は家庭を持った今でも私は引き継いでいる。

 私はおそらく「特殊」ではあるまい。被害者意識の強い在日知識人や、それに結託した左派の妄言に心ある日本人は惑わされることなかれと願う。

 「正論」平成16年9月号   論文



産経Webに掲載されている記事・写真の無断転載を禁じます。
すべての著作権は産経新聞社に帰属します。(産業経済新聞社・産經・サンケイ)
Copyright 2003・2004 The Sankei Shimbun. All rights reserved.

 FUJISANKEI COMMUNICATIONS GROUP Opinion Magazine

susume
pre