
【読者オピニオン】
葛西委員会提言「憲法問題を解く」を読んで(1)
11月号で日本経済調査協議会葛西委員会編「憲法問題を解く」を掲載した。
これに対して寄せられた読者の感想を紹介する
不磨の大典などありえない
元大学教授・泉田健雄(横浜市・81歳)
先ず提言の全内容に関し大変興味深く通読し、きわめて参考になった点が多かった。ただ紙幅の制約があり、個別的事項についての意見・感想に及び得ないことを残念に思う。
提言にいう“結語”の部分については全面的に賛成である。けだし、長年抱き続けてきた小生の所見と軌を一にしているからである。
−−『最後にひとこと加えておくならば、政治は生き物の如くつねに動くものです。そして政治とともに、その政治をささえている憲法も動くものであるという意識を、国民も、統治をする側ももつ必要があります。憲法はけっして動くことないスタティックなものである、という戦前・戦後をつうじて変わらなかった二十世紀の日本の“常識”にそろそろ別れを告げなければなりません。(中略)
その意味では、これからの二十一世紀は、戦前の大日本帝国憲法からはじまって、戦後の日本国憲法にいたった「不磨の大典」が、“不磨”ではなく、われわれによって変えられる、われわれの手中にある憲法として理解される、そのような時代にしていかなければならないのです』−−。
正にそのとおりである。昨年六月に上梓した拙著『組織規範再生の条件』のなかで、この点つぎのように述べておいた。すなわち、「憲法は国家法秩序の根本を定めたものではあるが、それとて完全なる政治制度とは言い得ない。ゆえに、憲法は国家生活の最高基準であるからといって、われわれの生活が絶対的に完全に規制されてゆくと考えるのは誤りである。
また、制度というものは制度なるがゆえに変化し、場合によっては滅亡する可能性さえも孕んでいる。それをあたかも永久不変のものであるとか不磨の大典だとか思いこむのは、人間の有限にして不完全なる能力というものを過大過信せる僭越な思い上がりと言わざるを得ない。
人間は完全なりとの前提が肯定されない以上、その人間の作った制度である国家組織規範が萬古に亘って不変不動のものと言うことは出来ない」と。
誤解と独断を前提にしては
森 清(藤沢市・79歳)
一、統治行為論について
九条問題で「最高裁判所が統治行為論のもとで、事実上、門前払いをし」は、誤りです。将来最高裁判所が九条問題を統治行為論で判断を回避することはあり得ることと思いますが、最高裁判所がこのような判決をしたということはありません。これを前提とした議論は如何なものでしょうか。
二、法制局見解について
法制局は、内閣の下にあって、法律問題に関し意見を陳述する機関であるに過ぎず、最終的決定権をもつものではない。陳述を受けた機関がその意見の採否を決定し、採用すれば、その機関の意見、見解となる。憲法問題では、陳述を受けた内閣、政府がそれを採用し、内閣の見解として外部に発表しているのである。
三、集団的自衛権について
所論は、不明確であるが、世上一般は、集団的自衛権を、国連憲章の規定による概念ではなく、海外における武力行使と混同して使っている場合が多い。政府の集団的自衛権行使違憲論の根幹は、九条二項で保持が禁じられている陸海空軍を現に自衛隊の形で保持していることを「必要最小限度」という概念を用いて合憲であると説明していることである。この論理からは、集団的自衛権の行使を合憲化するためには、九条二項の削除しかあり得ないという論理は当然である。
字数の関係で詳論はできないが、私は、この政府の解釈は誤りであり、現憲法においても集団的自衛権の行使は合憲であるが、すっきりするため九条二項を剤削すべきであると考えています。
総じて、この所論には、誤解と独断を前提としていることが散見されることは残念です。
政治の重大な不作為
大山健一(横浜市・32歳)
「憲法問題を解く」についての私の感想・提言を思いつくままに書いてみたいと思います。提言によれば「戦後半世紀以上にわたってつづけられてきた『改憲』『護憲』の不毛な神学論争をのりこえて、政治的にタブー視されてきた憲法問題を解いていくロジックを考え、それによって憲法問題を一貫したストーリーとして、歴史的文脈のなかに位置づけることが必要である」としております。
この点について全く同感であり、現在の私たち国民一人ひとりが考えるべきことはかつてのように「押しつけられたから改憲する」ということでなくして、まずは歴史的文脈の中に位置づけることであります。
つまりは「押しつけられた」という理解と「改憲」ということを切り離すことにほかならない。あくまで憲法を改正するのは現代の私たちがふさわしいものを求めた結果であるべきです。
我が国が主権を回復した直後ならばともかく、日本国憲法が制定されてから約六十年、サンフランシスコ講和条約発効(一九五二年)からは五十年以上経過しているのです。
今更、米国のせいにして憲法を変えることは全く筋が通らないばかりか、結局のところそれは「不毛な神学論争」に終始するものと考えます。
日本人の構えとしては、その歴史的由来を当然知らなければならないし、その義務があると私は思います。しかし、そのことと憲法を変えることは別に議論されるべきなのです。
現在、必要なことは国家的重要問題を把握し、それと憲法との関連を明確にさせることです。そのような前提こそが二十一世紀の日本人、そして日本の憲法には求められているのではないでしょうか。その前提に立った時にみえてくることは、憲法改正条項がありながらそれを無視して「不磨の大典」としてきたことです。そのこと自体、政治の重大な不作為でありますが、同時に憲法違反だと私は考えます。今すべきことは「改憲」「護憲」の争いではなく、憲法全体の総点検であると思えてなりません。
独断的な内閣法制局の9条解釈
前拓殖大学総長・小田村四郎(東京都港区・81歳)
(一)「報告書」は、「9条問題と違憲立法審査権の不行使」として砂川事件最高裁判決(昭34・12・16)の「統治行為論」を批判しています。しかし、「わが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するもの」は、「司法裁判所の審査には原則としてなじまない」とした最高裁の判断は正しいと思います。長沼事件一審の自衛隊違憲判決(昭48・9・7札幌地裁)をはじめ多くの下級審の違憲判決が社会的混乱を招いていること、最高裁すら政教関係訴訟で一貫性を欠いていること、最近は判決主文に関係のない傍論を長々と論ずる判例が増えていること等から、裁判官の個人的恣意的主観によって国家の存立が脅かされる危険があるからです。
(二)それにも拘らず、砂川判決は実態に踏み込んだ審査を行っており、9条に関する最高裁の唯一の貴重な解釈です。即ち(1)主権国家「固有の自衛権」は何ら否定されていない、(2)「憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」、(3)「わが国の防衛力の不足」を安保条約で補った、と判示しています。傍点部分は明らかに非武装論を否定し自衛隊合憲を含意しています。さらに田中裁判官、石坂裁判官の補足意見はこの点をより明快に述べています。問題は、この重大な判決を国民に周知させず、教科書でも無視した政府・与党の怠慢にあります。
(三)内閣法制局が政府の法令所管機関として憲法解釈を行うことは当然の義務です。しかし法制局の9条解釈は「報告書」が言うような「論理的」なものではなく著しく独断的です。9条問題の核心は「自衛権」の認否と、その正しい解釈であるにも拘らず、これを独断的に「個別的自衛権」のみに限定し、しかもその本質である「武力行使」まで否定するという、国際法の通念を無視した解釈に固執しているのです。その誤りを正さなかったのは、内閣と国会の責任です。
(四)行政権が連帯責任制の合議体である内閣に帰属する以上、主任の大臣の分担管理制を否定することは憲法上不可能です。ただし首相の行政各部の指揮監督権については検討の余地があるでしょう。
→つづく
| 「正論」平成16年12月号 |
論文
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