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 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>




[オピニオンプラザ 私の正論 誕生30年を記念して]
「年間賞」を創設

第一回受賞者に武木田雅大さん



 受賞の言葉「第一回受賞者に選んで頂き光栄です。紙面に載った論説は妙に立派に見えますが、これからも驕らず、研鑽を積んで行きたいと思います」

☆ ☆ ☆

 産経新聞紙上に、読者から論文を募集し優秀作を掲載する「オピニオンプラザ 私の正論」が昭和四十九年に誕生して丸三十年たちました。

 これを記念して産経新聞社は『年間賞』を設けました。厳正な審査で、過去一年間を通じて最も優れた論文を書いた執筆者を選び、記念メダルなどを贈ります。

 その第一回『年間賞』の受賞者に武木田雅大(たけきだ・まさお)さん(二二)=写真=が決まりました。

 武木田さんは兵庫県揖保郡太子町出身。淳心学院高校卒業。東京大学法学部政治学科四年在学。趣味は将棋、剣道、旅行など。昨年開催の第二十回土光杯全日本学生弁論大会(フジサンケイグループ行革キャンペーン実行委員会主催)では産経新聞社杯を受賞しています。

 受賞を記念して、ここに昨年二月三日付の産経新聞紙上に掲載された武木田さんの論文「元勲の気骨光る日露の逸話」(論文募集のテーマは「私の好きな日本史の名場面」)を再録します。

元勲の気骨光る日露の逸話

桂首相が自ら小村の人盾に

 日露戦争は国運をかけた戦争であった。それはロシアの南下への日本の危機感が、北清事変後のロシアの満州駐留により表出したことが直接的なきっかけであった。言うまでもなく当時の日本とロシアの国力には雲泥の差があった。にも拘わらず、日本は巧みな外交戦略と優れた軍事戦力とによって、この危機を乗り切ることに成功したのである。

 しかしその戦争の内情は当時の多くの国民に伝わることはなかった。日本の勝利が薄氷を踏むような危ういものだったことを知っていたのは一部の指導者層に限られていた。そのため多くの群衆はポーツマス条約の内容を目にした時、「勝利」と呼ぶにはあまりにも小さな戦果に大きな憤りを覚えたのである。国内は騒然とし、日比谷事件のような暴動が起こっていた。

 さて私の好きな日本史の名場面は、このような時代の状況の中、ポーツマス条約全権大使小村寿太郎が帰国した時の話である。小村が出発する時には、新橋駅は大変な見送り人で万歳の声で沸き返っていた。その時小村は傍らにいた幣原喜重郎に振り向き、「おれが帰ってくるときはあれは皆モッブになるんだ。おれに泥をぶっかけるか、ピストルでも撃ちかけるか、おれに危害をくわえる群衆なんだ。それだから、せめて出発の時だけでも万歳を受けておく方がいいよ」と言って笑ったと言う。

 果たして条約締結後帰国した小村への風当たりは極めて厳しかった。警視庁には小村銃撃計画が報告されていた。汽車が新橋駅に着くと、出迎えに来ていた首相桂太郎と海軍大臣山本権兵衛はすっと汽車の中へ入っていった。そして暫くして、桂と山本は小村を挟み込むようにがっちりと腕を組んで出て来たのである。小村を撃つのなら一蓮托生である、首相たる桂も海軍大臣たる山本も自ら人ぶすまとなり、小村一人を撃つことが出来ないようにしたのである。これを見た幣原はその回顧録『外交五十年』で「当時の元老大官の覚悟は偉いものだと私はつくづく感じた次第であった」と述べている。

 戦前の日本では国家首脳の暗殺事件は頻繁に起こった。日露戦争以前でも大久保、板垣、大隈などテロルに遭遇した要人は数知れない。そうした時代であったからこそ、桂達の行動にはうそ臭さはなく、掛け値なしの真実みをもって迫ってくるのである。日露戦争は無論ロシアとの戦いであった。そこでは旅順攻略戦や日本海海戦などの激戦、明石元二郎のスパイ工作、金子堅太郎の外交工作など、数多くのエピソードが所狭しと軒を連ねている。しかし、講和段階で世論と政府の間にも一種の「戦い」があったことを忘れてはならない。

 日露戦争では寧(むし)ろ世論が政府に先行したと言っても良い。過熱しすぎた世論と、政府の戦争遂行能力に関する認識との間に大きな隔たりがあった。勿論それは政府の情報公開の不足によるところも大きいが、ぎりぎりの戦局で敵国に手の内を見せるわけには行かない事情があった。そのギャップの中で伊藤をはじめとする明治の元勲達は自己の信念に従い、阿(おもね)ることなく正しい道を選択した。桂達はそれを政府全体の責任であると認識し、小村個人にそれを押し付けることなく、上記のような行動に及んだのである。それは政府が一丸となった国家運営への責任と信念を身を以て国民に示したものであり、その意味で桂らはこの新橋駅頭で、もう一つの日露戦争を戦っていたとも言える。

言葉に頼らず責任貫き通す

 このエピソードはそれほど知名度の高いものとは言えない。戦後においては日露戦争を肯定的に評価する歴史観自体、司馬氏の『坂の上の雲』以降普及したものであるし、暴走する民衆・世論とそれに毅然と立ち向かった気骨ある明治の指導者達という構図は如何にもエリート趣味で、戦後民主主義の土壌から受け入れにくかったのかもしれない。しかしわたしはこのエピソードは、民主主義を謳歌する戦後日本であるからこそ、逆に大きな含意をもつものではないかと思っている。

 民主主義とは民衆に基盤を置いた政治である。それはメディアの発達と共に、言葉とそれが作りだすイメージとが大きな影響力を持つ政治となった。そこではしばしば、「信念」とか「決意」とかいった言葉が国民の歓心を買うためだけに安売りされている。言葉が大切な時代において、逆に言葉が軽佻浮薄(けいちょうふはく)なものとなってしまっているのである。それは何より「言葉」に「行動」が伴わないからである。

 そうであるからこそ、わたしは文字通り身を盾とし国民の批判に対し生命を賭して、毅然とした態度で国家運営の責任を貫き通した桂ら明治の指導者達の紛れも無き「信念」と「決意」に対し、政治体制や時代状況の違いを越えて、一国家を率いる者の虚飾の無い深みと重みを感じるのである。新橋駅頭の桂達の「行動」は、維新以来の明治精神が「無言」の内にその光を放っていた象徴的瞬間と言うことが出来るだろう。


 「正論」平成17年3月号 論文





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