お元気ですか。
もう三月かと思う人もいれば、まだ三月かと一日も早い春の訪れを待ちわびている人も多いと思います。
啓蟄(けいちつ)というむつかしい漢字があります。冬ごもりの虫が這い出るという意味ですね。家にこもって外出しないことを蟄居(ちっきょ)といいます。本来の意味は、虫が土のなかに籠っているのをいいます。広辞苑から拝借した知識などどうでもいいのですが、花にも蟄居や啓蟄があったら面白いですね。
先日、タクシーで市ヶ谷の大日本印刷へ向う途中、靖国神社をすぎて飯田橋の法政大学のあたりで外堀の桜木に目がいきました。「花は桜木、人は武士」のあの桜木ですが、冬ですから実際にはただの枯れ木にすぎません。
信号でタクシーが停車したとき、また大きな枯れ木が目に飛び込んできました。花もなければ葉もない。風情も情緒もない。それではつまらなすぎると、桜吹雪、桜雨、桜人、桜花、桜烏賊、桜前線、桜餅と桜を頭にした単語を一気に思い浮かべてざらざらした木肌を眺めていると、あら不思議や、そのくろずんだ上皮にふいに隠れたエネルギーのうごめきを感じたのです。
「ふいに」といった瞬間をしばしば体感する人もいれば、鈍感でほとんど感じたことのない人もいます。わたしのような後者の人間には、めったにない経験でしたから、まったくたわいのない話でも、その瞬間がとても貴重に思われました。そう、うごめきです。開花に向けて桜の妖精たちが満を持してそのときを待っている。そういううごめきですから、要するに錯覚です。もうちょっと進むと幻覚になってしまいますが、それではあまりに無粋すぎる。たまには、こういうメルヘンふうの空想も童心に戻ったようでわるくありません。
空想家といえば、だいたいは誇大妄想のマイナスイメージのほうが強いのですが、本来は大切なもののはずです。空想量の豊富な詩人が羨ましくなります。大きな声ではいえませんけれど、空想の貧困な人はおおむね発想も貧弱ですね。空想が発明の端緒となるひらめきにつながったり、ときには天の啓示を呼び込む契機であったりすることもあるはずです。
これは二月十八日昼前のささやかな体験ですが、その一週間前、東京都美術館へミュシャ展を見に行ったとき、上野の山で西郷さんのところ殻数分、大通りの一本の桜が満開なのに出くわしました。こんどは空想ではなく、現実です。
どういうわけで、この桜木はひと月も早くエネルギーを爆発させてしまったのか。それとも毎年、この木だけが早咲きなのか。ずっと疑問に残っています。どなたか、教えて下さい。そういえば、早稲田大学の旧図書館わきに二月下旬から三月上旬にかけて満開になる桜があります。上野のあの桜もワセダ同様、早咲きの遺伝子をもっているのでしょうか。
そこだけが春爛漫の別世界の通りの一角で記念写真を撮っている家族連れやカップルがいました。そこに十数人の欧米系のツーリストがやってきて、歓声をあげました。彼らが驚いたということは、この桜が季節はずれの満開だったのを知っていたからなのか。そして、自分たちの幸運を声をあげて喜んだのか。それとも単純に、美しいニッポンのサクラに感嘆の声をあげたのか。彼らに直接、回答を求めないかぎり永久に正解のわからない問題を空想しながらミュシャ展へと向ったのでした。ミュシャの絵も花でいっぱいでした。
春の桜にミュシャの作品。どちらも長い間、決して裏切ることなく至福のひとときをあたえてくれる貴重な存在です。
「正論」編集長 大島信三
| 「正論」平成17年4月号 |
編集長メッセージ
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