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 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>




インドネシア独立運動と日本とスカルノ(2)

元亜関係協会駐日代表 馬 樹禮
訳/文化大学日本研究所所長 陳 鵬仁


日本軍のインドネシア占領

 ナチス・ドイツが武力で全ヨーロッパを制覇し、東洋侵略に目を向けようとした頃、日本はその宿望であったアジア独占の夢を実現する好機を逃さなかったのは当然であろう。一九四一年七月二十九日、日本軍はヴェトナムに上陸すると、何の抵抗もなくフランスのヴィシー政府から空海軍基地を手中におさめ、間もなく東條“戦時内閣”から小林(中)代表団がインドネシアへ派遣された。

 小林代表団は表面上、経済通商問題の討論とされていたが、実際は重要な政治・軍事的使命を帯びていた。東インド政府から派遣された談判の代表は、当時経済部長をつとめ、後にオランダ代表として東インド問題の処理に当たったヴァン・モークである。秘密会談が行われ、談判の経過や日本側の要求は、インドネシア指導者に相談、または通知もしなかった。小林代表団が帰国してから、日本の提出した条件は、次の六点であることが洩れた。

(一)東インド政府は、出来うる限りスマトラ、カリマンタン(ボルネオ)、スラウェシの各諸島、および小スンダ列島を開放して、日本人の開拓に提供すること。

(二)東インド政府は、日本製品の輸入課税を免除すること。

(三)東インド政府は、インドネシアに設立された日本人の商社と農園に対する制限を緩和し、日本によってその責任者および労務者が雇用できるよう許可すること。

(四)東インド政府は、インドネシアに設立された日本人農園が、自から鉄道、港湾の建設ならびに使用される所有船の航行を許可すること。したがって、東インド政府は外国人に対する沿海の航行権を撤廃すること。

(五)東インド政府は、日本人が規制を受けている印刷、紡績、製氷、ゴム製造などの商工業の自由経営を許可すること。

(六)東インド政府は、日本漁船のインドネシア領海における自由漁獲、ならびに水魚の自設市場、漁船用製氷所、その他漁獲に必要とする漁船修理工場、貯油所などの設備を許可すること。

 日本側のこれらの要求は、ヴァン・モークの断固たる拒否を受けたので、小林は何の成果も得られず帰国したのであるが、次いで日本は軍事力をバックにして、芳澤(謙吉)代表団を派遣し、当時のジャルダ総督とヴァン・モークを脅迫して、ヴェトナムの前例にならって戦わずに東インドの支配権を握ろうとした。ところが、当時のオランダはロンドンに亡命政府を置き、中・米・英三国と緊密にABCD戦線を結成していた関係上びくともせず、これを蹴ったので芳澤代表団もまた成果をあげずに帰国した。

 日本の太平洋制覇にとって最大の癌は米国であることを日本政府はよく知っていたので、野村・来栖両特使を米国に派遣してハル国務長官と談判する一方、一九四一年十二月八日に真珠湾を襲撃し、ここに太平洋戦争が開始されたのであるが、天皇は同日、全国民が一致団結して゛聖戦″を支持し、東南アジアにいる白色人種を駆逐せよという詔勅を出した。

 英・米に続いてオランダは、日本に対して宣戦布告を行ったが、事前にインドネシア人指導者と相談しなかったので、一般大衆は自分たちとは関係ない戦争だという傍観者的態度をとり、日本は最小の代償を払っただけで資源の豊かなインドネシア諸島を手に入れた。

 すなわち一九四二年初めに日本軍は、スラウェシのメナド、カリマンタンのタラカン、バリイックパパンに進撃を開始するとともに、オランダに対して宣戦を布告した。二月十四日、インドネシア北部からスマトラに向って進撃した日本軍は三月一日ジャワに上陸、同八日には連合軍最高司令官ター・プーテン中将(オランダ軍所属)が、白旗をかかげて降伏した。当時、ジャワ島には八千人の英米軍が駐在しており、英軍のシチウェル少将の指揮下にあった。

 同少将から戦闘を継続する意思表示があったにも拘らず、英米軍指揮官に相談もせず、単独で降伏を決めたのである。オランダ軍が大して戦いもせずに降伏するなど、なんという腰抜けだろうと、インドネシア人はこぞってあざ笑ったが、それはフランスのヴィシー政府と同様に、日本軍に妥協してその支配下で、東インドをひき続き統治する魂胆だというデマが流れた。また、装備、兵員ともにオランダに劣る日本軍が勝ったということで、インドネシア人は兵器さえあれば自分らもオランダ軍を追っ払えるのだという自信を強めたのである。

 このように日本軍が侵攻した当初は、インドネシア人から相当歓迎された。なぜならば、オランダ統治下で禁止されていた赤白旗や、“偉大なるインドネシア”(現在の国歌)が、公然と掲揚または唱えられるようになったのだから、彼等にしてみれば日本軍は解放の恩人であった。続いて、オランダ人、混血オランダ人、親オランダ系のクリスチャンなどがすべて収容所へ入れられ、官庁や公共事業の欠員は大量にインドネシア人が起用され、中には一躍して数階級も昇進した者もいたので、これもまたインテリに好感を呼んだのである。

 かくして得意になって迎えられた日本軍は、ますます自信を強め、一九四二年四月二十九日にいわゆる三亜運動を発表した。これは、(一)日本はアジアの指導者である、(二)日本はアジアの保護者である、(三)日本はアジアの光である、という三項目であるが、インドネシアの人力と物力を総動員して、日本の“大東亜共栄圏”の確立を目指そうとしたのである。

 この三亜運動の指導的責任者として、大インドネシア党の国民参議会議員サムスリンが任命されたが、インドネシア人指導者の地位からいえば、スカルノ、ハッタ、アビクスノなどよりも遥かに低い人で、このことからでも日本軍の占領初期には、まだ民族運動指導者の起用を重視していなかったことが言えよう。

 しかし間もなく、日本の夢は消え去った。いかに大宣伝をやったところで、三亜運動の反応はごく限られ、インドネシア人を大同団結させるまでには至らず、僅か数か月後には日本の意図するところが暴露されて、逆に反感を呼ぶ結果となった。その主たる原因を挙げると、(一)あらゆる資源が軍需品に回されたので、インドネシアの日常必需品が日増しに欠乏して、生活が苦しくなったこと。(二)インドネシア人に対する兵隊の暴虐行為が、一般の義憤を呼び起こし、一九四二年末までに各地で小騒乱事件が発生した。また大学生や中学生の抗日運動が起きたり、秘密組織に加わって反日活動をする者も出てきた。

 こうした状況のもとに、日本軍は改めて民族指導者の隠然たる勢力を認識するようになり、方針を変えて、広大な民衆を擁する民族指導者と協調路線を保つために、インドネシアの自決を唱え、搾取の目的を果たそうとしたのである。

  →つづく

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 「正論」平成17年4月号 論文





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