
拉致被害者認定の奇々怪々と新たな拉致未遂事件(1)
特定失踪者問題調査会理事 岡田和典
二〇〇五年四月二十五日午前九時十八分、兵庫県尼崎市内のJR塚口−尼崎駅間で快速電車脱線事故がおこる。テレビ各局とも急遽定時番組を報道番組に切り替え、生々しい事故の様子を現場から伝えた。
事故発生から約五時間後、共同通信は、事故と同じ兵庫県内、神戸市灘区出身の拉致被害者、田中実さん(一九七八年六月六日成田より出国)について政府が北朝鮮による拉致被害者であると認定する、との第一報を配信した。記事によると同日中にも発表されるという。
社会が未曾有の脱線事故によって騒然とする中での、曽我ミヨシさん以来二年半ぶりの拉致認定が意味するものとは一体何なのか。
田中実さん拉致の経緯
二〇〇二年九月五日午後二時、友愛会館にて記者会見が行われ、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(以下、全国協議会)から田中実さんの中学卒業時の写真が公開された。田中実さん拉致事件が大きく報道された最初である。
田中さんは灘区内の児童養護施設に在園しながら、神戸市立高羽小学校、神戸市立鷹匠中学校を卒業していた。私は同じ灘区で生まれ神戸市立成徳小学校を卒業している。鷹匠中学校の校区は高羽、成徳両小学校の校区で構成されており、田中さんと私は同じ公立中学の校区であり、しかも昭和二十四年生まれの同学年でもある。私が私立中学に進学したため田中さんと席を同じくすることはなかったが、小学校時の友人たちの協力により写真は入手できた。しかし、中学在学時の田中実さんと友人たちとの付き合いは少なく情報の入手は困難を極めた。「知らない。記憶がない。そのような同級生がいたような気がする」との返答ばかりである。友人たちの話をまとめると次のようになる。「同じ養護施設から多くの生徒が通っており、集団で行動することが多かった。そのため友達としての付き合いをするほどの接触の機会がなかった。田中さんはおとなしく目立たない少年であった」。
当時の養護施設ではそのほとんどが中学卒業と同時に卒園し、社会に巣立っていったが、成績優秀であった田中さんは高校に進学する。養護施設の同学年八人中、高校進学は三人であった。進学先は神戸市立神戸工業高校で、周辺は在日が多く従事するケミカルシューズ工場が立ち並び、近くには朝鮮学校が今も存在する。有本惠子さんの実家とは一キロメートルも離れていない。在学時三年間担任をした渡辺友夫先生も「高校時代の田中実さんは、目立たない印象の薄い生徒であった」という。
高校卒業後、渡辺先生達の配慮により、社員寮のある就職先として事務機器会社に就職するが長続きせず、その後、洋菓子店・喫茶店等を転々とし一九七八年初め頃、神戸市東灘区阪神青木駅近くのラーメン店「R」に辿りつく。この間の情報は少なく断片的である。ただ、社会に出てからの田中さんを知る者の印象は一変し、饒舌で社交的な青年であったという。女性からの印象も好かったようで、喫茶店ウェートレスと生活を共にしていたとの情報もある。
このラーメン店勤務が田中実さんの運命を決定する。
「文藝春秋」一九九七年一月号に「日本人拉致組織『洛東江』の20年」という衝撃の記事が掲載される。田中実さん拉致事件が初めて世に知らされた北朝鮮元工作員の暴露手記である。横田めぐみさん拉致事件が大きく報じられたのが一九九八年二月三日であり、北朝鮮拉致問題がまだまだ国民の関心事でなかった時期であることに注目しなければならない。
著者は張龍雲氏。元兵庫県灘商工会理事長とある。略歴をみてみよう。一九四一年神戸市生まれ。五八年に関西大学法学部入学。総連兵庫県商工会に入る。七二年より日本国内における北朝鮮の非公然組織「洛東江」構成員となり、約二十年間、非公開事業に従事し、現在は自営業とある。
この手記によると、張氏は八〇年代に祖国北朝鮮平壌を訪れ「洛東江」の担当デスクであった北朝鮮労働党中央のソンイルボンとの会話の中で、「洛東江」のメンバーである韓竜大が田中実さん拉致事件に関わっていたとの事実を知ることとなる。以下はソンイルボンが張氏に伝えた田中実さん拉致事件の詳細である。少し長くなるが引用したい。
●(●=恵の心を日に)廷楽は韓を、七〇年代半ばに非合法で北朝鮮に帰国させたことがあった。平壌で開催されたある国際的な大会に出席させるためである。出発は山口県長門市。深夜零時、●(●=恵の心を日に)廷楽 が長門市の海岸で小石を二、三度投げて合図を送ると、潜伏していた工作員がそれに反応して姿を見せた。準備されたゴムボートで沖合まで行き、待機していた潜水艦で元山へ向かった。韓は平壌では非公開の招待所で暮らし、この時、韓に日本人を拉致してくるよう指令が下りた。日本に帰った後、彼は自分の経営するラーメン店「R」の従業員田中実を海外旅行に連れて行ってやると言葉巧みに誘い出しオーストリアのウィーンへ向かった。田中はここで消息を絶ったが、ウィーンで「ゴールデンスターバンク」という北朝鮮の情報収集組織にバトンタッチされ、モスクワ、そして平壌に向かったものと思われる。「ゴールデンスターバンク」は表向きは普通の信用金庫であるが、オーナーが朝鮮人で、極秘に情報収集する組織である。ソンイルボンは私に、「田中は現在、同じく日本から拉致されてきた女性と結婚し翻訳関係の仕事に就いている。元気でいるので心配しないでくれ、と韓に伝えてほしい」と話した。
昨年十一月に兵庫県警は当時の友人から新たな証言を得た。失踪の直前、「インド方面に輸入関係の仕事に行く。韓から頼まれた」との内容である。友人は韓が輸入業とは無縁に思われたため不審に思い渡航を考え直すように忠告したという。
田中さんは卒園後、一度だけ養護施設を訪ねている。この訪問時、在園中に世話になった施設長は外出して不在であり、田中さん卒園後に入った職員に、「外国に行って籍を売ろうと思っている」との言葉を残し立ち去っている。施設長はマスコミが田中さん拉致事件が大きく取り上げられた後に、この事務員から初めて訪問時の様子を聞いたという。
→つづく
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【略歴】岡田和典氏 昭和二十四年(一九四九年)兵庫県生まれ。立命館大学法学部卒業。学校職員を経て、阪神大震災後まちづくり協議会会長。現在NPO法人理事長。元「救う会兵庫」副代表。
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| 「正論」平成17年7月号 |
論文
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