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 <知を楽しむ人のためのオピニオン誌・「正論」>



7月号



労働側の体質も問われるJR西
元会社役員・二瓶 昇(東京都足立区・71歳)

 五月十三日付産経新聞の談話室で、大谷守生氏の「労使一体の安全対策が急務」という投書を見て、そう感じているのは私一人ではないんだと思った。尼崎市のJR西日本の脱線事故の原因については、いろいろ報道されているが、JR西日本の体質(大谷氏は風土と言う)が問題であろう。

 あれは確か事故の翌日だったと思うが、テレビニュースで労働組合幹部(委員長?)のコメントを聞いて、これでは事故災害撲滅の気運の高まりにはほど遠いと感じた。事の真意を少しも考慮することなく、もっぱら経営者側の責任及び体制への批判のみで、むしろこの際を利して労働条件の改善を要求し、今回の件については自分たちには何ら関係なきがごとしの言動だった。その姿は顧客である国民の立場などは全く無視し、ストライキばかり行っていた一時の悪名高き旧国鉄時代の労働組合が、そのままの体制で残存しているように思わせた。

 その後、乱れた事々が出るわ出るわ、同乗していた二名の運転士が救助活動に参加せず遅刻を気にしながら会社に出勤した、ボウリング大会に大勢参加し宴会まで催していた、宴会を兼ねたゴルフ大会を行っていたなど。事故現場では阿鼻叫喚の真っ只中の惨状であったのに、全く常識では考えられない。

 もちろん、経営者(会社)側の責任が重大なことはいうまでもない。当然ながらマスコミ等も厳しくその責任を追及しているが、一方の労働(従業員)側の体質及びその責任追及については、極めて少であり偏り過ぎている。労働側も同じく同社の一員である以上、同等の認識を持たなければならない。安全第一という目的の達成は、労使が一体となって努力することで初めて成し遂げられる。

54年前の事故と比較して
地域防災研究所所長・大間知倫(横浜市・69歳)

 五十四年前の昭和二十六年四月二十四日、国鉄時代の桜木町事件車両火災は午後一時四十四分頃発生した。この時、伊勢佐木警察署高野署長他十名が事故現場に到着したのは、一時五十分。一時五十二分には消防車が現場到着、消火を開始した。警察は遺体百名の収容を三時半までに終えた。雨戸二十枚やむしろ二百枚を近隣の協力を得て警察が調達した。午後十一時迄に氏名確認七十名、四十三名の遺体が遺族に引き渡された。

 国鉄の営業局長・輸送局長が直ちに現場に駆け付け、死者に慰謝料として二万円、重傷者に一万円、軽傷者に五千円を贈った。軽傷者には事故当日中に医師を巡回させている。この時運転士は車両から飛び降り、二両目のドアを力一杯引いて乗客を避難させた。三・四・五両目は連結を解除し、乗客三百名も無事避難できた。

 今回のJR西日本の対応を桜木町事件と比較してみると、危機管理への取り組みは後退していると言わざるを得ない。

 高野署長の手記によれば死体の詳細調査を実施、氏名判明者を駅のマイクを使って放送、棺桶百戸の準備を駅長に依頼したが、大井の鉄道工場で行ったため、結局午後八時半になったこと。国鉄、警察、消防が一致協力して被害者の対応にあたったことがわかる。今回遺族対応のJR西日本の近藤執行役員の現場到着は四時間後、尼崎東署の遺体安置所の開設も三時間位経ってからと、桜木町事件に比べれば遅れが目立っている。

 私が昭和三十三年に就職した頃は、昼食時に上司が関東大震災や空襲、水害などの対応を詳しく話してくれたものである。桜木町事件のような国鉄の重大事故の記録は民営JR各社には引き継がれず、鉄道博物館で眠っている。

勝者でない勝者の悲哀
元教員・河原 巧(大阪府羽曳野市・71歳)

 一九九三年二月にフランスのミッテラン大統領がベトナムを公式訪問したとき、記者会見で「八年間の戦争は間違いだった」と述べたが、植民地支配や戦争についての謝罪はしなかった。ベトナム側も謝罪を求めたりはしなかった。オランダのベアトリックス女王が、インドネシアの(オランダからの)独立五〇周年記念式典に出席したときも、晩餐会で「悲痛な戦いで多くの者が亡くなったり、その後も傷をひきずらなければならなかったことは深い悲しみである」と述べただけで、明確な謝罪や反省などしなかったし、インドネシア側もあえて求めるようなことはしなかった。

 思うにベトナムやインドネシアには、最後には相手を「叩き出した」という自負があるのだろう。すなわち勝者としての誇りである。勝った者は敗者に改まった謝罪など求めなくても、自身に誇りをもてるのだ。

 それにひきかえ中国の場合は、戦勝国の一員として国連安保理の常任理事国の席を与えられてはいるが、蒋介石の国民政府軍は山奥の重慶から反撃することなく、日本軍のポツダム宣言受諾の日を迎えている。毛沢東の八路軍にしても、彼自身の『持久戦論』の第三段階(日本軍を中国から追い出す)にまで到達できずに戦争は終わってしまった。

 日本の敗北は実質的にはアメリカに対する敗北であって、他の連合国(火事場ドロをおこなったソ連はこのさい除く)に負けたのではないから、日本人の意識としてはアメリカに対する敬意はあっても、中国に対しては出てこない。この感情は微妙なところで相手(中国)に感じ取られるだろうから、日本および日本人に対する憎悪(劣等感の裏返し)として残り続け、その表現が「小日本」なのだ。

「経済」を軸に反撃を
自営業・中沢 稔(横浜市・51歳)

 なぜか中国では「反日」がブームである。これでは日中友好は死語も同然だ。とにかく、本音を語らない国だから理解に苦しむことが多い。しかし、この状態が続くようでは精神衛生上良くない。そこで、日本の「経済」を軸にした効果的な反撃に期待したい。

 中国は「チャイナ・アズ・ナンバーワン」と思い込んでいるが、日本の貢献を忘れているようだ。そうした「経済認識」が欠如した反日行為は、現在の高度成長の急激な終焉を招くことになる。国際社会の視線に配慮できないのなら勝手だが、そんななかでの対中投資はハイリスクなので激減するだろう。いずれ、ODAも終わる。これで、過熱しすぎた「中国進出」には幕が降ろされるに違いない。さらに、北京オリンピック以前のバブル崩壊も防げないだろう。そこまで理解しての「反日」なのだろうか。結論は中国の意思に委ねればいいことだ。

 ここで、身の回りの製品をよく調べてみると、多くが「中国製」である。しかし、品質が特に高いわけではない。要するに、「常識はずれに低い人件費」をうまく利用しただけのものである。これで供給不安があるようでは見捨てられるだけだ。現実に、対日感情が悪くないベトナムなど代わりの生産拠点には事欠かないからだ。今回の事件を教訓として日本経済の流れが変わることを期待したい。

もういい加減にしろ!
元会社員・森 光弘(埼玉県所沢市・80歳)

 私は戦前、韓国の大田市という所に在住して、当時の旧制大田中学校で昭和十五年から十九年、二年生から五年生までの約四年間を過ごしました。当時、大田中学校は一学年三組あり、各組三分の一位は韓国出身者が在籍していました。二、三年前まで毎年交互に同窓会をそれぞれの国で開いて来ました。

 大田市は当時、忠清南道という日本でいえば県に当たる地方の道庁所在地で、知事は韓国出身者でした。知事の息子も私達と机を並べていましたが彼は今でも健在で、同窓会にはいつも顔を出しています。

 私が言いたいのは、今盛んに言われている、戦時中の日本軍隊が、従軍慰安婦という当時の私達は聞いた事も見た事もない、韓国人の女性達を強制的に戦地へ連行して日本兵の慰安に供したという事や、韓国人男性を強制的に内地の工場へ連行して労働に従事させたというような事は、彼らは一言も言った事はないし、また認めてはいません。それらは皆事実に反するからです。

 もしそのような事があったら、当時韓国出身の知事や配属将校達が黙っていなかったでしょう。また女性が体を売る売春行為は、当時の日本では国が認めていた事ですし、当然大田市内にもそのような場所があって休日には駐屯していた軍の若い兵隊達が出入りしていました。私達同級生の中の韓国人も、日本軍隊へ志願して戦場へ赴く人もいたのです。私も陸軍特別幹部候補生第一期生として終戦は満洲で迎えましたが、特攻隊要員の私達の仲間にも韓国出身者がいました。

 一方的な韓国人元売春婦の偽りの言い分を真に受けて、慰謝料を払う愚を行っている一部民間の団体や左翼の連中を断じて許せない、平和ボケの日本人はもっと正しい歴史に関心を持ってもらいたいと思います。

 「正論」平成17年7月号   論文



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