お答えします
▼質問=札幌市の狩野友彦さん(元教員・85歳)から。
質問 軍馬はどうなったか
私は、昭和十八年まで中支那で某部隊の重機関銃中隊に属し、終戦時は内地へ転属していました。
中支那戦線で渡河の時、乗馬は敵弾に倒れたが、息が切れるまで、鼻柱を震わせ、歯をくいしばって、痙攣を起こし、激痛に耐えている姿は実に哀れで身を切られる思いでした。さて、戦時中は多くの農耕馬も召集され戦場で人馬一体で戦い敵弾に斃れました。
敗戦で軍人は引きあげたが馬は輸送できず断腸の思いで残したと聞いています。また、なかにはトラックの後を追って二時間もついてきたがついに姿が見えなくなった可憐な馬もいたそうです。
ところで、敗戦当時の軍馬はどうなったのか教えてください。
1、私の部隊ではこのように処置したという具体例を挙げてください。
2、戦死した馬の霊魂を祀る国の施設があったら教えてください。 (二月号)
▽回答=兵庫県尼崎市の宇根元崇泰さん(元会社員)から。
1について
日清・日露の戦役では馬も共に内地へ帰ったようでありますが、支那大陸や南方方面にあっては、今次の大東亜戦争では大本営命令にある通り、当該戦勝国軍隊へ降伏するべき旨、記されておりました。
このことから、外地にあっては戦時利得品として扱われた可能性が軍馬に関してはございます。
一方、内地にあっては、大詔拝聴の後、終戦に伴う処理で、軍旗(連隊旗)や軍隊手帳、勅語集の軍人常時携行物は焼却すべき命令があったときいておりますが、軍馬に関してはその字句は一切見当たりませんでした。
とまれ、内地では連日の空襲で自動車はじめ極度の物資不足のため、馬は輸送上必要だったことで、いち早く民間に払い下げられた場合や、内陸部の地方連隊では馬と一緒に復員した者もいたという程です。
また、大東亜戦争に到るころには、騎兵連隊が姿を消し始め、戦車兵、航空兵といった機甲科が主力をなすようになっていたことでは、往年の数の馬はこのころいたかどうかということもかかわってくるのではないでしょうか。
しかし、内地も昭和二十年八月二十八日を皮切りに米軍占領部隊が上陸すると、地方連隊の施設を接収し、この点は外地同様戦時利得品として武器も引き渡されました。
復品業務途上、軍馬軍犬は米軍に引き渡されたり、娯楽供用のためそのまま米軍留まり、或いは競馬場に後々渡った馬もあると聞き及んでおります。
2について
靖国神社は創建当初、競馬興行が行われておりました。この線から靖国神社と馬とは時代的変遷があるにしても関連が深いものがございます。
とりわけ日本古来より武士は馬と共にしており、今次大戦においても「共に死ぬ気で此の馬」と生死苦楽を共にした陣中日誌が散見されたりしております。
靖国神社はまぎれもなく国難に赴いた戦没将兵の御柱を祀る他、大戦にかかわる公務で死亡した方々を祀る人格神でありますが、境内には、軍馬の慰霊碑がございます。
明治三十五年ごろ、騎兵科将校であった彫刻家後藤貞行氏にあずかる模型がつくられたが、昭和三十三年ようやく戦没馬慰霊像が納められ、以後毎年四月七日、軍馬慰霊祭が行われております。題字は北白川宮房子様の親筆によるもので、戦没馬慰霊とあります。
戦地でも、陣没将兵の慰霊祭と同様、戦没馬慰霊祭も広く行われ、忠勇なしたる馬の武功を讃えておりましたことは我が国以外には聞いたことがございません。
なべて畏きものすべて神と喝破した本居宣長翁にある通り、英霊ともゆかりの深い馬は御祭神に少し向きあうように建っており、其の往時が偲ばれます。
各国の戦没者慰霊施設は、式典のときだけではないかと思われるものもあったり、極端に祭教色を拒んでいるものもあったりする感じがあるものがありますが、靖国神社が毎日の日供を始め祭祀厳修されていることはもとより、境内のこういった記念慰霊碑は、我が国独自の神性感がつたわってくるものがあります。
▽回答=三重県伊勢市の稲垣清さん(自由業・95歳)から
軍馬は私共軍人同様夫々数奇な運命を辿りました。
一、昭和十二年八月支那事変勃発により私の所属した京都第十六師団、三千五百頭の内、徴発された地方の農耕馬約三千頭の内、昭和十八年八月、部隊復員と同時に復員した千二百頭は深草に於て一ケ月間の検疫の後、臨時制定された「陸軍貸付予備馬制度」に依り京都、滋賀、奈良、三重の徴馬管区内の貸し付け希望農家に貸し付けの後、無償供与、農村復興に寄与し大変喜ばれました。
二、大東亜戦終戦後の各部隊所属軍馬は次記の如く其の運命を辿りました。
(1) 支那大陸部隊所属軍馬は武装解除と同時に中共軍に引き渡されました。其頭数その他詳細不詳(友人情報)。
(2) ビルマ戦線、私の所属した京都・安(ヤスシ)部隊(第五十三師団)は内地携行馬千、ビルマ戦地で他師団からの転属馬二千頭でしたが、戦局既に制空権を失った時では昼間の軍馬の行動不能。ジャングル内に軍馬のみ退避させ、殆んど行動する事なく、栄養失調症の為落命の運命を辿りました。但し後方に在った司令部等の軍馬は此限りに非ず詳細不詳。
(3) 終戦時タイ国では相当数の軍馬が英印軍に引き渡されたと聞いて居りますが、詳細不詳。
(4) タイ国北方チェンマイとビルマとの国境付近、私の部下井上朝義獣医大尉はマラリア症のため後退、その途上タイ国クンヤム村に於いて終戦を迎え現地逗留英印軍捕虜となり、現地日本軍の保有した軍馬三十頭の銃殺を命ぜられ、涙を呑んで実行した。
其の後内地復員後も脳裡を離れず、この蛮行を悔んで居りましたが、意を決して知友を頼り、タイ国の現地に至り軍馬慰霊のため軍馬の銅像を作製して由縁の地に之を建立いたし、殆んど毎年現地を訪れ慰霊法要を実施して居ります。此のことはタイ国内でも広く知れ渡り有名紙にも報道され、県知事はじめ有名人の参詣もあるとのこと。
三、軍馬の慰霊碑について
(1) タイ国内に於ける軍馬慰霊碑については前述の通り。
(2) 京都師団では京都霊山護国神社境内に京都深草騎兵第二十連隊記念碑として軍馬の銅像が建立されて居ります。京都以外でも軍馬の慰霊碑の建立があるようにきいております。
(3) 愛知県蒲郡郊外三ケ根山(サンガネサン)上には大東亜戦従軍陸海各部隊の慰霊碑が林立しております。東京軍事裁判に依り処断された東条首相以下七烈士の碑も建って居りますが、先年心ない赤軍派の愚挙により爆破されました。その後の様子は分かりません。
此の三ケ根山上、七烈士の碑の側に軍馬の慰霊碑と軍用犬の慰霊碑が建立されて居ります。その詳細については私の集めた資料が散逸して不詳です。
(4) ビルマ各地の慰霊碑については日本政府の手で既に調査済みですが、軍馬慰霊碑については未知です。
| 「正論」平成18年4月号 |
ハイ、せいろん調査室です
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