(8)夫婦の利害の調整
定年後の夫の取材に出掛けて、趣味のソバ打ちの話などを傾聴していると、妻がお茶を運んできてくれたりする。
それで、「どうも」と会釈などしていると、「ソバ打ちと言ってもねえ」と、たいてい妻が口を挟んでくる。
「素材が命とかで、粉にもだしにもワサビにもこだわって、お金をじゃんじゃんかけているんですよねえ、私から言えばおいしいのは、当たり前なんですのよ」とかなんとか。
この時、夫がアハハと鷹揚(おうよう)に笑っていれば無難なのに、「そんなわけないだろう、分かりもしないで、お前は余計なことは言うな」などと、妻にエラソウにしたりすると、とんでもないことになる。
妻と一緒にいる夫は、他人がいると、つい格好をつけてしまうのだ。
けれど、「お前」呼ばわりは、いかにもまずい。人前でそう呼ばれるのは、妻のプライドをいたく傷つける。
そうなると、他人がいることが歯止めになるどころか、かえって、日ごろの鬱憤(うっぷん)を噴出させるきっかけになったりする。
「定年になって、なんにもやることがないんじゃ、かわいそうと思って、私は協力しているんです。ソバをご近所に配るんだって、大変なんです。毎度のことで、いらぬ気を使わせて、お返しをいただいたり。そういうのは男って全然、気づかないんですよね」
「なにいちゃもんつけているんだ。だったら、これから打ったソバは捨てろ!」と、男はなにかと極端へと飛躍する。が、「ソバを打つなら、毎日の昼ごはんも自分で作ってほしいですよねえ」と、妻は、現実的な成果を得るべく、こちらに同意を求めたりする。
実は、こんなふうに取材者の私を挟んで、「夫」と「妻」がけんかを始めたり、ちくちく言い合ったり、の場面に私はよく遭遇した。
この時は、いつのまにか夫のソバ打ちの話が、定年後の夫の昼ごはんの話になった。そして、夫がつい、「妻が昼メシを作るから、悪いと思って食べている」と言ったばかりに、「だったら、私、もう絶対に作りません!」と妻の宣言を誘発してしまった。
後日、妻から「一度言いたいと思っていたことが言えて、ありがたかった」と礼状をいただいた。
夫婦の利害の調整には、どうも他人の立ち会いが必要なようなのである。
(ノンフィクション作家 久田恵)
(2007/03/02)