(9)三十数年前の恋
最近、私はささやかだけれどシアワセな日々を送っている。一人暮らしになったので、ゴミ出しのない朝は、目覚まし時計をかけずに寝坊ができる。
ところが、突拍子もないことが起きた。
先日、朝の8時に見知らぬ人からの電話で起こされた。
しかも、それが恋の話で、電話口で女性が泣いている! おかげで、ついつい話を長々聞いてしまったのだが、概略はこうだった。
夫と子供2人のいる50代の主婦。姿は見えないが、声の澄んだきれいな人だ、と思う。
彼女は、一応波風の立たない毎日を送っていたそうだが、三十数年前の自分の日記を読んで以来、日々が一変してしまった。当時の上司との「不倫の恋」の記憶がよみがえったのだ。
それがもう、苦しくてたまらず、彼の勤め先に電話をしたら、すでに定年で退職をした後だった。
でも、あきらめきれない。彼の自宅の住所を調べて手紙まで書き送った。が、まだ返事が来ない。
つらくて、悲しくて、もういたたまれない、とか。
ほほう、と思う。
三十数年前の恋の再燃ねえ、と。
こういうことがあるから、人生は油断がならないのである。定年後に、昔々の元恋人から手紙を受け取った元上司の仰天はいかばかりか。
人生のツケというにはあまりにスリリングだ。でも、たぶん、返事がないのが彼の答なのだろう。
それにしても、遠い過去の恋の再燃に、かくもはげしく駆り立てられている彼女とは、なんなのか。聞けば、今がフシアワセというわけではなさそう。むしろ、あまりに平穏な日々に、満たされないものを感じているらしい。
そう、人生には、困難、苦難、挫折などなど、いろいろあったほうが、充実感を得られるものなのだ。
振り返れば、誰にとっても、苦難な時こそが人生のハイライトだったりする。
そんなわけで、思わず口走ってしまった。
「その三十数年前の恋って、あなたの人生の中で、なかったよりあったほうがよかったことなんじゃないのですか。過去の恋に泣けるほど今苦しいなんて、うらやましいです。私もそういうことで悩んでみたいです」
意表を衝(つ)かれたのか、電話の向こうで彼女は黙り、電話が切れた。かくして、私の一人暮らしの朝のシアワセが舞い戻った。
感慨深い出来事だった。(ノンフィクション作家 久田恵)
(2007/03/09)