(16)一切空おばあさん
「おばあさんになるって、どういうこと?」と、考える年ごろに私もなってきた。
ちょっと前まで、「おばあさん」の存在は、自分とは全然違う世界に生きている方々、と思っていたのに…。
ところが、どうも「おばあさん」のイメージがあいまいだ。日本の昔話などでは「いいおばあさん」と「悪いおばあさん」しかいないように描かれている。でも、これからの「おばあさん」はもっと多彩になるだろう、と思う。
で、先日、80歳になった知人に「自分はどんなおばあさんと思うか?」と聞いてみた。すると「あら、私、まだ、おばあさんじゃないから、全然、分からないわ」と言われてしまった! 確かに、色香の漂う彼女は、いまだ恋愛現役ふうなのであった。
ならば、90代ならそろそろかなあ、と思ったら、その彼女も「夢見る少女のままかしら?」と。
なあんだ、みんなそれが本音ね。老いた実感がわかず、「おばあさん」の自覚がまるでないのね、と笑ってしまった。
けれど、彼女に言わせると「ただし、世間の現実は、とても厳しいのよ」という。
最近は、人から「おいくつですか?」としか聞かれなくなり、年を言うと、「まあ、お元気ですねえ」でおしまいになる。「私は、人から年齢にしか興味をもたれなくなった存在なのね、と思うと、すごく悲しいわよ」と言うのである。
いずれも、彼女たちはとある有料老人ホームに住む、経済的には恵まれた「持てる女性」たちだ。
その一方で、私の好きなイギリスの伝承童謡、「マザーグースの唄」の中には、「なんにもないおばあさん」という、まったく持たざる「おばあさん」がいる。
食べるものも、着るものも、与えるものも、失うものも、なあんにもないおばあさん。
彼女のことを、北原白秋が「一切空おばあさん」と訳していて、小さな家に住むこのおばあさんは、ある時、なにものかに家ごと飲み込まれて世界からふいに、かき消えてしまう。
おお、これぞ真の「おばあさん」。私は、このタイプかなあと思うが、ただし、100歳も過ぎないとこの境地には至れないだろうとも思う。それまでは世間がどう見ようと、なかなか枯れられない、なかなか悟れない、そんな気もする。
となれば、私が「おばあさん」を実感するまで40年以上。いやはや。このまま「おばあさん」を実感できないままで、人生を終えてしまうのかもしれない。
(ノンフィクション作家 久田恵)
(2007/04/27)