(17)人生は展開する
3年前。
「定年後」をテーマに取材していた折、「いやあ、実は今日からが、その日なんですよ」という男性に遭遇した。
64歳の彼は、業績の振るわない会社の社長が気の毒になり、自ら退職届を出したばかりだった。その彼が、印象に残るちょっときざなせりふを吐いた。
「定年はおれにとっては、また人生を変えるきっかけにすぎない」
聞けば、彼の人生はなかなかの波瀾(はらん)万丈。50代で熟年離婚をして、家賃6万円のアパートに1人で暮らしていた。年金は月13万ほどだから、定年後と言っても、働ける間は、ずっと働き続けねばならない身の上だった。
その彼が、いろいろと計画を語った。なにしろ、家族が誰もいないと、もう全国どこに住んでもいいわけで、なかなかに自由なのだった。
で、とりあえず東京を捨てる、どっか家賃の安い地方に行く、と彼は言った。
その前に、職業訓練校で植木職の講座を受ける。将来、近所に高齢者がいたりしたら、ちょっと庭の木を切ってあげたりして、お礼に野菜なんかもらったりしてさ…、と。
理想は、景色のいいところのリゾートマンションの管理人になること。すでにマンション管理業務主任者の資格は取っていたが、「そう人生はうまくはいかないから、無理だろうな、でも、人間の醜さ、汚さ、見ちゃったから、これからは自然相手で暮らしたい」と吐息をついていた。
1年後、はがきが届いた。
北軽井沢の別荘エリアの管理人になったとある。人生途上で、ふと、すれ違っただけの人だったが、なんだか、やったね、とうれしかった。
2年後、実はがんが見つかり手術をすることになった、人生はなにが起こるか分からないですね、と書かれていた。
いやあ、そうかあ、とこちらまで落ち込んでいたら、またはがきが来て、無事、手術は成功、美しい自然に浸っていれば、病気は克服できるだろう、と知らせてくれた。
3年後、自然に癒やされ、気持ちまで清浄になったようだ、管理人の仕事は、まるで人生の贈り物のように素晴らしいとあった。
人生は展開する。
いくつになっても。たぶん、運がよかったり、悪かったりしながらも、ちょっと頑張れば、いつも新しい日々が次へ、次へと生まれていく。そう思えるようになった。(ノンフィクション作家 久田恵)
(2007/05/04)