(19)ファンタスティックに
「そうか。困難こそが人生の前提だったのね」
数年前のある朝、目覚めたとたんに、私はつぶやいた。
なによ、いまさら、という感じではあったけれど、私はどこかで、女の人生も山場を過ぎれば、いずれ好きなことのできる日が来る、と信じていたのである。
ところが、十数年の介護の末に母を亡くし、子供が自立し、さて、これから…、と思っていたときに父の体調がおかしくなり、またまた介護が始まったとき、私は、気がついたのである。
すでに50代も終わりかけ。30代も、40代も大変だったけれど、きっと60代も、70代も同じなんだろうなあ、と。
つまり、人生は晴れ、時々曇り、ではなく、人生は、基本が雨か曇りで、時々雲間から、さーっと光が差し込むから、うれしいのよねえ、という感じだろうか。
そこで、考えたあげく、「いつか」とか「いずれ」とか、この「山場」を過ぎたら、とかではなく、なにごとも「いま」やろう、と。
でも、やろうってなにを?
と、自問自答してみても、すぐには整理がつかないのだった。パンを焼きたいとか、ダンスを習いたいとか、絵を描きたいとか、外国に行きたい、とか、芝居の台本を書きたいとか、誰かを喜ばせ、役に立つことをしたいとか…。
頭の中がぐちゃぐちゃ。
そこで、よくよく考えた末、今後の人生では、きちんとテーマを持って生きようと思い立った。
そのテーマが「ファンタスティックに生きる!」ということ。
なんですか、それ? と面食らう人がほとんどだけれど、時々、「それは、追求しがいのある、とても深いテーマだと思うよ」としんみり言ってくれる人もいる。
目下は「お茶会」を開いたり、「出前パペレッタ」という、歌とダンスと人形芝居がごっちゃになったものを企画して、参加者を募って公演をしたりしている。
いろんなことをしながら、人生を「ファンタスティックに生きる!」とは、いったいどういうことなのかを本気で模索中だ。
人生にテーマをもたないと、とくに女は子育てだ、介護だ、家事だ、と日常を覆っている細々とした事柄に埋もれてしまう。最後はひとりになって、「私の人生ってなに?」という状況に陥りがちだ。
自分の固有な人生をかけがえのないものとして、今をどう生きるかを考えてやれるのは、結局は、自分のほかにない、と思い切るしかないのだと思う。
(ノンフィクション作家 久田恵)
(2007/05/18)