「あんたは、誰なんだ?」
おやつのヨーグルトをスプーンで口元に運んでいたら、91歳の父がふいに言った。
いつも達観したような表情でめったにしゃべらない父である。久しぶりに聞いた懐かしい声だった。
「あら、娘よ。お父さん。忘れちゃったあ?」
こともなげに答えながらも、動揺している自分が隠せない。年老いてなにもかも覚えていなきゃならないのは大変である。だから、いろんなことを忘れちゃってもいいよ、と思っていながらも吐息が出る。
以前、記憶の弱くなった親を、なんで、なんで、どうして分からないのっ!と問い詰めている人を目の当たりにして以来、父の記憶を試すようなことだけはすまい、と心に決めているのである。
にもかかわらず、である。
しばらくすると、やっぱり思わず私も聞いてしまった。
「ねえ、私は誰だっけ?」
「○○だろう?」
父が私の名前をほろりと口にした。とたん、ほっとして「ありがとう」と言いたくなった。私を見つけてくれてありがとう、と。
おそらく、声や、気配や、しゃべり方、いろんな要素の刺激に触発され、父は父の記憶装置に保存されている「娘の記憶」をなんとか見つけ出してくれたのだろう。
そう、父の頭の中で、きっと私は、時々迷子になるのだろう。誰だろう、誰だろう、と思って、父は父でもどかしくなって、この日、思わず聞いたのだろう。
「あんたは、誰?」
老いとはそういうもの。ここはもう観念して、受け入れなければならないことなのだと思う。
そういえば、先日は、とある人からも切々とした問い合わせの手紙をもらった。
「あなたは、誰ですか? 私の人生にどんなかかわりがあった方ですか? どうぞお知らせください」と。
20年ぐらい前、取材でお世話になって以来、年賀状や暑中見舞いなどをやりとりしていた方だ。
彼もまた高齢になり、いろいろと思いだせなくなって、でも、年賀状を見て、名前が気になって、気になって…、とうとう思い余って問い合わせてきたのである。
彼の人生にとって、私はそう重要な人ではなかった。忘れてもいい人だった。それなのに、思い煩わせてしまったことが、なんだか申し訳なくて、胸が痛かった。
このごろ、いろいろとね、せつないことがふえてきた。(ノンフィクション作家)
(2008/01/25)