実家暮らしが20年。母を看取り、目下は父の介護中だが、気が付けばすっかり「親の家」に住み着いてしまった。
住み着く前は(と言っても、あまりに昔のことだけれど)、この私、一カ所にとどまれない気質で、引っ越しばかりを繰り返していた。
しかも、住んでいたのは1DK。自分の荷物は常に一室に納まる程度。そのほとんどが、仕事柄、資料と本ばかりだ。
今、自室を見回しても、自分には遺すべきものはないなあ、と思う。いざとなれば、エイッ、とすべて捨ててしまえばそれでいい。
簡単だ。
が、「親の荷物」をどうしよう…。
私も次第に年をとってきたので、息子の代になる前に片付けておいてやらなければ、と焦る。
が、いっこうにはかどらない。
なにを遺し、なにを捨てるか。
祖父母の代からの膨大な写真など、いったいどうしたらいいものか。呆然(ぼうぜん)とするのみだ。
それから、美しい千代紙。母がなにかに使うつもりだったのか。ただ、美しさにひかれてこんなにも集めたのだろうか。めまいのするほどの量である。
マクラメ編みの糸の買い置きも手付かずのまま大きな段ボールに2つ。陶器やステンドグラスの作品もたくさんある。
いずれもいろんな趣味を持ち、いろんなことをして暮らした母の豊かさの証(あかし)だ。
さらに、サイズの合わない靴。たくさんのバッグ。旅先で集めた小さな小物たち。
遺されたものには、母の人生が刻印されているようで、いざとなると、なにも捨てられない。
それに比して、仕事一筋だった父の物のなんと少ないことか。段ボール数個に梱包(こんぽう)されたままの工学関係の資料と本。ただし、思い出の詰まったそれらは、絶対、捨ててはならないといわれているので、処分することは不能だ。
そういえば、家を出ていった息子からは大量のマンガ本やCDの処分を禁じられてもいる。
結局は片付けられない。片付けたくても、家族それぞれの思い出のとり付いた物たちが主張している。捨てるな!と。
かくして、家の中はいつまでも混乱状態で、私の夢見るすっきりとしたシンプルライフの一人暮らしの道は遠い。引っ越し不能なまま親の家に住み着き、みんなの思い出を守っていくしかないのだろうかと、時々、途方に暮れてしまう。(ノンフィクション作家)
(2008/02/01)