産経新聞社

ゆうゆうLife

(60)妻の定年

 夫の定年の日には、「上等なワインをあけてお祝いをしたわよ」とうれしそうにいう妻がいる。

 おまけに、花束まで贈って「これまでありがとう」と感謝の言葉を添えた、とも。さぞかし、夫が喜んだにちがいないと想像したのだけれど、よく聞いたら、ちょっと違う話だった。

 実は、かねてより「夫の定年」を機に、自分も「妻の定年」を!との約束だったから、記念日のこの日に気を入れたのだとか。

 「で、かねてよりって、いつのこと?」と聞いたら、それがなんと10年前! 「夫の不倫が発覚した時にね」とのこと。けれど、夫の方は、そんな約束はとっくに忘れていた。要するに、夫は追い詰められて、切羽詰まり、その場しのぎで、「なんでもします」と10年後の妻の要求にすでに応じてしまっていた、というわけなのだ。

 「ほら、私って転んでもタダじゃ起きないタチだから。負の体験はチャンスに変えなきゃ」と彼女は屈託がない。

 かくして、夫は、定年のその日、ワインで乾杯したとたん、妻から10年前の約束をいきなり切り出され、反論の余地なく、文書にサインをさせられたのだった。

 そこには、夫の退職金と貯蓄と年金は折半、光熱費などは、夫の預金口座からの引き落とし、などなどの細かな条件が記されていて、さらに、今後の妻の人生に干渉をしないことも併せて約束させられた。

 以来、彼女は彼女、彼は彼、と関係をリセット。ただの同居人として暮らすことになったのだけれど、これがよかったらしい。

 「デートしない?って誘い合ったり、一緒に旅行したり、これが悪くないの。最近は、定年記念日をふたりで祝ったりして、なぜか仲良くなっちゃったわよ」

 どうも、これまでの結婚生活で起きたさまざまな葛藤(かつとう)を、定年記念日を機に水に流すことができて、この10年のモヤモヤもうそのよう消え去ってしまったらしい。

 彼女はしみじみ言う。

 「こういう日がくるなら、あの時、辛抱してよかったわ」と。

 関係のありようが変わっただけで、人の気持ちはかくも劇的に変容する。とくに、「今」に納得がいけば、「過去」はどうでもよくなってしまう。夫婦の関係には、そんな潜在力が潜んでいるらしい。夫婦の力って未知数ね、と夫のいない私には、羨望(せんぼう)を感じる話。なるほど、結婚生活では転んでもタダで起きてはいけないのだなあ、と。(ノンフィクション作家 久田恵)

(2008/03/21)