産経新聞社

ゆうゆうLife

(63)父からの「ありがとう」

 父の四十九日を終えた後、遺言書の開示という体験をした。これがなかなか印象的だった。

 初老に入った子ども3人が神妙な顔で座る前で、執行人なる人が、子ども一人一人に、父が遺(のこ)した言葉を読み上げるのである。

 私の個所では、「二女は、○○クンと離婚した後、家に戻り、子育てをしながら、仕事もし…」などと具体的に述べられていて、いささか身の置き場のない感じ。

 要するに、頑張った、といってくれてはいるのだけれど、こちらとしては「いろいろ心配をかけたんですね、ごめんなさい」と思わずうつむいてしまった。

 が、最後に「一緒に妻の介護をしてくれたこと、自分と暮らして面倒を見てくれたことを感謝する、ありがとう」とあった。

 生前に一度も言われたことのない父からの「ありがとう」だった。思わずワッと泣き伏したい気持ちにかられてしまった。で、この遺された言葉を聞きながら、私はしみじみ思った。子どものこちらにとって、親は、常に一対一の関係だったけれど、親にとってはまったくちがったのだなあ、と。

 つまり、親が人生を振り返り、自分にとって「子ども」とは何だったか、どう育てどう育ったのかと考えるとき、子どもを全部ひっくるめて考えるということ。

 父の場合、長男は自分と同じエンジニアとして仕事をまっとうして満足。長女は、ちゃんと家族を作り、幸せを得て安堵(あんど)。二女は、頭の痛い娘だったが、一緒に暮らしてくれた。よって、全体としては、まあ「子ども」には納得かなあ、という思いのようだった。

 いわば、親の期待を子どもはそれぞれに分担してこなすものらしい、ということ。わがままだとか勝手きままだとか、寄り付かずにいたとか、ひとりひとりにいろいろ難点はあっても、3人合わせてみれば、結果、補い合ってそれなりの子ども役割をこなしていたのね、ということ。

 これが、1人だったら大変だ。あれもこれも1人で担わねばならない。が、子どもが複数いれば、たとえ1人くらい巣立てなかった子がいても、親のそばにいるだけで必要な役割をこなすことにもなるわけで、人生の最後の最後で、「ああ、この子がいてよかったあ」と思えるものに違いない。

 ともあれ、今回のことで分かった。親が遺すものは、資産ではなく「言葉」が大事。ある人が言っていた。人は死んだら「言葉」になるんだよ、と。(ノンフィクション作家 久田恵)

(2008/04/11)