ひとりになって、鏡を見る時間が増えた。これまでは忙しく、自分の顔をよく見たこともなかったけれど、先日、メガネをかけてつぶさに点検したら、しわとか、シミとか、たるみとか…。
おお、いつの間にここまでになっていたのか、と遅ればせながら失望した。
思えば、鏡を見ない限り、自分で自分の顔は見えない。どんな時、どんな顔をするのかも本当のところを知らない。そもそも、鏡は左右逆に映る。自分の顔を他人のまなざしで見ることは、不可能なのだ。
そうか。自分の顔を一番知らないのは、自分かもしれない、と思いつつ、鏡の中の自分に亡き母の面影を見たり、たるんだほおを手で持ち上げて、あら、こうしたら、昔の私の顔が戻ってくるよ、と鏡の中の自分と会話を交わしている。
ともあれ、誰もがなにかと自分の容貌(ようぼう)を気にしがちだけれど、年をとると、確実に、昔美人だった人とそうじゃなかった人の差がなくなる。いわば、容貌の平等化が図られる。これは、いいな。
ただ、その分、心の葛藤(かっとう)の有無とか、性格とか、生き方の価値観とか、いろんな要素が容貌にあからさまにあらわれてきて、こちらがなかなかに大変になる。
そんな折、アメリカの美容整形の本を読んで驚いた。
あの国では目下、生物兵器のボツリヌス菌の液を薄めて注射をし、顔の筋肉をまひさせるボトックス注射がはやっているそうな。この注射をすると、しわひとつない陶器の顔になる。40代が20代にも見える。ただし、度を超すと怒っても怒った顔にならず、笑っても笑った顔にならないらしい。
若く見えたい女性ばかりではなく、米国では弁護士とか、営業マンとか、他人に心を読み取られたくない男性も、この注射を打つらしい。そんなこんなで、これからは、どんどん見た目の若さや美貌はお金で買える時代になっていく。
経済格差が容貌格差を生む時代になる、ということだ。
でも、年齢不詳の能面の顔をした人ばかりがはびこる世界を想像したら、心底ゾッとしてしまう。
やはり、追求すべきは年相応の美しさ。表情が柔らかくいきいきしていて、目尻にしわが寄ったりするのが、なんてチャーミング!という世界を失いたくない。
衝動的に通販の高級化粧品に走ったりせず、わが顔のシミを愛し、しわを寿(ことほ)ぎ、心自由に生きていかねば、と鏡の中の自分によくよく言い聞かせたのだった。(ノンフィクション作家)
(2008/05/30)