自宅でいろんなことをやっている。お茶会、陶人形教室、読書会などなど。1人暮らしの老後には友だちがなにより大事。今から、人的資産づくりは怠りなく、という感じかしらね。
なかでも、私が一番、気をいれているのは、人形芝居。
ところが、先日、同世代の友人から、しみじみ言われた。
ほかのことは分かるけれど、人形芝居だけは、あなたがやるには(年齢のことらしい)かなり風変わりだわ、と。一度、公演を見にきて、この人、どうかしている、と衝撃を受けたらしい。歌ったり、踊ったり、人形を動かしたりの熱情の過剰さにあぜんとした、とまで言う。
そうかなあ、と思う。
アメリカなどでは、人形芝居は高齢者の人気の趣味だ。パペット(人形)フェスティバルなどがあると、銀髪の老人たちが喜々として集結し、遊び興じる。
いっときのファンタジーに、あれこれあった人生のウサを忘れ、人形とたわむれ、音楽に興じ、時には痛烈な社会批評だって行うのだ。
それに、ほら、車いすになってもできるし、脚本、作曲、美術、衣装、いろんな形の自己表現を共同でできるアートな遊びで、お金もかからないし…。
と説明していて、ふと、思った。
いや、そうじゃなくてえ、と。
思えば、メンバーの中には、私に限らず、なぜ、あなたが人形芝居なの?と、意表をつかれてしまうタイプの人も少なくない。
そう、人はある時期に至ると、定められたそれぞれの人生の枠組みから、おいそれと出ていくことはかなわない。
だとしたら、ここにいて、なおかつ自由という、脱日常の解放された境地に至るには、やっぱりね、相当に高く、遠くまで跳ばなくちゃあならない。
そもそも現実が、リアルで窮屈であればあるほど、ファンタスティックな妄想だって、どんどん華麗に膨らんでいく。
「だからね、私にとって、人形芝居はなくてならない装置だったのよ」と友人に伝えたら、「そうかあ、ちょっとした息抜きくらいじゃあ、ウサが晴れなかったのね」ですって。
人が、なにかにハマるには、それなりのわけがある。今や、1人になって、ここから自由にどこへでも行けるようになったのだけれど、似たもの同士が人形芝居で遊ぶ空間だけは、80歳のおばあさんになっても手放したくないな、と思う。
(ノンフィクション作家)
(2008/07/11)