「思春期の息子がいるのよねえ」とある人が言った。
そのムズカシイお年ごろの息子に、とある時、投げつけられた言葉に彼女はいたく傷つけられてしまったそうな。
その時、あっ!と思ったそうだ。「これって、かつての私が、親に言った言葉じゃないの」って。
それで彼女は、怒濤(どとう)の悔恨に襲われ、老いた親に謝りに行ったのだそうだ。
そうかあ、と思った。
私など、言いっぱなしのやりっぱなし。振り返れば、親をさんざんな目に遭わせたけれど、謝ったこともないままに、とうとう親を見送ってしまった。
ただ、その代わりといえば、なんだけれど、子供でさんざんな目に遭っても、ま、しようがないかあ、私もそうだったからなあ、と思えるタフさだけは身についたように思う。
そういえば、同居していた父が、80歳代も半ばになってから、述懐していたことがある。
「考えてみれば、オヤジのところに行っても、わしは、実家には泊まりもせず、いつもホテルに泊まっていたなあ。なんでそうしたかなあ…。オヤジは、たまには息子に泊まってほしかっただろうになあ」と。
父は、かつて企業戦士だった。仕事が人生の中心課題で、親の気持ちにも、妻や子の気持ちにも思いをはせるタイプではまったくない合理主義者だった。
彼は、ホテルが便利、ただそう思って、1年に、1度か2度、老父のもとに顔を出しても、実家に泊まりもせずに、さっさと帰ってしまっていたらしい。
その父が、自分が老いて、時々顔を見せにやってくる息子や娘を迎える側になって、初めてあの時の親の気持ちに気がついたのである。何十年もたった後に…。
それを聞いたときも、そうか、と思った。そして胸も痛んだ。きっとこれから私も、年を重ねるたびに、突然の悔恨に襲われることが増えてくるに違いないと思った。
要するに、親が丈夫で、元気そうにしているときは、親に配慮をするとか、その気持ちをおもんばかる、というふうには、子供の心は向かわないということ。
子供に言われ放題、され放題のうちが人生の華かも。
そう、親子間の悔恨は順繰りなのだから、なにを言われても、「いずれ後悔するわよ、ふっふっふ…」とひそかに笑ってやり過ごすのが賢明なことにちがいない。
子供なんぞに傷つくなかれ、である。(ノンフィクション作家 久田恵)
(2008/10/03)