ある年齢を越えると、突拍子もないことをやっても、「いいんじゃないの」で済まされる。
そう、子育ても終わったし、親の介護もまっとうしたし、一人だし…。で、なにを企画しても、まわりに反対する人が誰もいないのがいい。
先日も、住宅街の真ん中のわが家で、会費制、ワイン付きでホームコンサートを開いてしまった。しかも、無謀にもというか、かの70年代デビューのフォークシンガー、山崎ハコさんを招いたのである。
なんと、彼女が来てくれたのである!
もう、それだけで感動であるけれど、わが家のリビングにギターを抱えて登場し、いきなり歌い始めた彼女のその声に震撼(しんかん)してしまった。
ただ声がきれいとか、高音が響くとか、さすがに上手よねえとか、そういうことではなく、実はずーっとこの歌を、山あり谷ありの長い人生の間、私は聴き続けてきたんじゃなかろうか、という思いに浸されたのだった。
家出して街をさまよったり、仕事を転々としたり、子供を抱えて途方に暮れたり、そんな時に響いていたのは、確かにこの歌だった、という実感。誰の人生にもある、悲しみの琴線、おそらくそういうものに触れる声を彼女は持っていて、聴く人の心が自然と共振してしまうのだろう。
表現とは怖いものだと思う。
年齢を重ねていくごとに、その人の生き方とか価値観とかが、望む望まないにかかわらずにじみ出てしまう。
50歳を過ぎても、60歳を過ぎても、不思議なオーラを漂わせて、山崎ハコさんは歌い続けるのだろうと思う。彼女は、聴かせてあげる、という歌手ではない。歌わずにいられない私だから、歌わせて、そう訴える切実な歌である。
だからこそ、人の胸に届くのだろう。そういう歌手が、果たしてどれほどいるだろう。
ついでに、私もなあ、と思った。
近頃は、人形芝居をやったり、ファンタジーを書いたり、これまでやれなかったことをやっているけれど、「うん、老後の遊びよ」なんて逃げの姿勢じゃなく、なにをやるにせよ、表現せずにはいられない自分というものと真摯(しんし)に向き合っていなければ、と。
抱えてきた年齢分の人生の悲しみ、それは誰にとっても大切な財産であり、今を生きている証しなのだから。(ノンフィクション作家 久田恵)
(2008/10/31)